逝ってしまうとは、思ってもいなかったのに。


***
 奏一朗が死んだのも確かこんな青空の日だった。照りかえす日差しと、焼け焦げたアスファルト。蝉の声が煩くて、なのに言葉があまりにもはっきり聞こえたのを覚えている。
「死んだんだ」
低くそう言われたのを、あまりにもはっきりと覚えている。

 奏一朗は夏目の五つ年上の兄だった。血の繋がりのない兄妹、というのはひどく落ち付かない関係で、両親の前では仲良く振舞っていたものの、何処かしこりが残っていたのが思い出される。
「夏目さん」
そう奏一朗は夏目のことを呼んだ。夏目は兄さん、と呼んだ。名前を呼んだことはなかった。名前で呼ぶことを躊躇っているのは、奏一朗にも分かっていたのだと思う。
 それでも、夏目さん、と呼ぶ奏一朗の声がやけに嬉しかったのだ。


***
 開け放したままの障子から白い足が覗いていた。
「ただいま、兄さん」
夏目が言うと、奏一朗はだらしのない声でおかえりなさい、と言った。また貧血になっていたらしい。夏目は黙って洗面所へ引き返すと濡れタオルを持ってきた。
「頭を冷やすと良いわ。夏場の貧血には効くと思うから」
「あぁ、良い子だねぇ……夏目さんは」
そう言って、奏一朗は目を細めて夏目を見た。その目は妙に優しい。いつもそうだ。夏目を見る奏一朗の目は何処か慈しむようなそんな曖昧な様子ばかりで、夏目は感傷的になってしまう。
「もう高校生よ。良い子、なんて扱いは止めて頂戴」
つっけんどんに言い返すと、そうだねぇ、と奏一朗が返す。それ以上何も言い出さないところをみると寝入ってしまったらしい。奏一朗は良く眠る。大学生にして作家と言う職業上、不規則な生活が多いからだろうか。
「もっと気をつけて頂戴、兄さん」
夏目はそう言って、奏一朗に背を向ける。奏一朗の寝てる姿は見たくない。まるで、死んでいるように穏やかだから。
 夏の日差しは暑く照らす。
 それは奏一朗が亡くなる前の話。


***
 奏一朗と夏目の親が再婚したのは夏目が中学生、奏一朗が浪人生の時だった。家族になった日々は穏やかで、新しい母も悪い人ではなかったし、兄となった奏一朗も、少し頼りはないけれども気が合わないわけではなかった。寧ろ幼くして実母が病死して以来、しっかり者として育った夏目とぼんやりした奏一朗は組み合わせとしてはしっくり来る組み合わせだった。
「兄さん、またそれを放り出して」
「いや、そうでしたね。すいません」
「今やってることを全て終えてから次のことをしたら。きりがないわ」
新しい両親が微笑ましくこちらを見ていたのを覚えている。夏目はその度に何処かくすぐったい様な、嬉しいような妙な気分になったものだ。
「夏目さんは良い子だね」
それは両親の口癖でもあった。その言葉を聞くことはもうない。今では両親がどのように夏目さん、と呼んでいたかも思い出せない。

 奏一朗が大学に受かったその年から夏目が中学を卒業するまでがこの家族での蜜月だったと言ってよい。その後は悲惨なものだった。何処をどう間違えたらそんな状態になるのかは分からなかった。ただ、その結果は両親の離婚だった。ひどく憔悴しきった顔で、別れることにした、と言った父親の顔が今でも時々ちらつく。
 その時に奏一朗が言ったのだ。
「二人で暮らしましょうか、夏目さん」
そう言われると、もうそれ以外考えられなくなってしまった。次の日に少ないながら荷物をまとめて家を出た。奏一朗は何も言わずに歩いたが、不思議と心配はなかった。
 奏一朗について行けば何も心配は要らない気がした。


***
 奏一朗と夏目の城になったのは二人で生活するには少し狭い感のあるアパートだった。夏目の高校からそう近くはなかったし、奏一朗の大学からは寧ろ遠かった。それでも夏目は文句一つ言わなかった。実際文句などなかった。狭い部屋は奏一朗と夏目を身近に感じさせたし、寂しさの入り込む隙間などなかったのだ。
「夏目さん」
ぎこちないその声が部屋に響くのが夏目は好きだった。狭い部屋で顔をつき合わせて炬燵で過ごすのも、団扇で暑さを紛らわせるのも。
 二人ならば、この上なく穏やかに日々が過ぎていく気がした。
 奏一朗がどうやって生活費を稼いでいるのか夏目は知らなかったが、いつも奏一朗は月始めになると夏目に一ヶ月の生活費を渡した。それを使って夏目はやりくりしていた。貧乏というしかない暮らしだったけれど、夏目は辛くはなかった。奏一朗がいつも傍に居た。
「夏目さん」
そう言って笑っていた。
 七夕も、クリスマスも、一年の終わりも、全て奏一朗と過ごした。
 奏一朗が、夏目の世界の全てだった。


***
 母親が夏目の前に現れたのは奏一朗と暮らし始めてから半年ほど経った、ある冬の日のことだった。友人と別れて校門の辺りまで歩いていくと、不意に何処かで見知った顔が視界に現れた気がした。それが母親だった。
「久しぶりね」
歩きながらは一言も話さなかった母親が口を開いたのは、とある喫茶店に入って一息ついたところでだった。奏一朗の大学からは遠く、夏目の高校からも遠く、二人の住まいからも遠く、夏目の元住んでいた家からも遠い喫茶店だった。
「元気だった?」
「えぇ」
「どうしてるの?」
「高校に行っているわ」
「……奏一朗は?」
「大学に行っている」
「どうしてるの?」
「生きてるわ」
平行線の会話が耳を刺した。周りの喧騒が妙に遠く感じた。曇った空から割れた光と雨が零れ落ちた。夏目は綺麗だと思う。綺麗過ぎて、見失う。色彩は流れて、何も残らない。
「雨ね……」
沈黙が流れた後にぽつりと母親が言った。
「帰ります」
夏目は言って立ち上がった。
「奏一朗が」
母親は夏目の動作をまるで気にしない様子で言った。
「貴方は渡さない、と言ったのよ」
「……何」
「あのぼんやりした奏一朗がね。『夏目さんは僕と居るんです。夏目さんの傍に僕が居るんです』と、言ったのよ。まるで貴方以外要らないみたいに」
頬杖をついた母親の表情が見えなかった。夏目は視線を逸らす。馬鹿みたいに雨が降っている。限りがないように、更々と。
「可笑しいでしょう」
二人とも笑わなかった。傘はなかったけれど、夏目は頭を下げて喫茶店を出た。軽快なジャズが気に入らない。母親の言い草も気に入らない。
 何より
 奏一朗の言葉が、気に入らなかった。
 制服が濡れて、夏目の頬も濡らして、でも拭わなかった。雨は降り続けるから拭っても無駄だ。無駄なことなんかしない。そうして拭わずに放っておいて
 泣いてなんかいない、と言い聞かせた。

 電車を降りると、真っ白な傘が出迎えた。視線を上げる。傘で見えない表情が、それでも夏目の脳裏に絡みつく。
「おかえりなさい、夏目さん」
この雨の中、浴衣姿で奏一朗が立っていた。全身は傘をさしていなかったかのように濡れていて、奏一朗の痩身が、凍えそうに見えた。
 夏目は立っていた。
 動けなかった。
 まるで、蘇るみたいに満たす声。
「夏目さん」
呼ばれて駆け出した。雨が目の中に入る。空気しか掴めなかった手を雨に伸ばす。
 届かない、届かない、晒す。
 瞬間、白い傘が舞って背後に落ちるのを見た。奏一朗の体温。冷たい、冷たい感触。貧血気味の細い躯。
「兄さん」
呼んだ。か細い声で呼んだ。夏目さん、と言う声を躯の響きで聞いた。
 渡さないのは自分の方だと、思った。


***
 近所で夏祭りがある、と聞いてきたのは奏一朗の方だった。
「お祭りがあるんですよ、夏目さん」
奏一朗が言った。そう、と夏目は返した。夕食を何にしようかと考えていて、何処かその台詞が耳につかなかった。
「一緒に行きましょうか。屋台で食べるのも良くないですか?」
そう言われて初めて奏一朗が何を言ってるのか思い当たった。振り返ると、奏一朗の顔。逆光に満たされた、何も見えない表情。夏目はこくりと頷いた。浴衣など持っていなかったから、そのままの服で待っていた。まもなく奏一朗がいつもの浴衣を着て出てきた。それで二人して家を出た。

 屋台は明るくて、まるでそこだけ楽園のようだった。人込みを好まない奏一朗を気遣って、夏目は遠くから眺めるだけでいい、と言った。
「行かないんですか?」
奏一朗が聞いた。それでも自分は行かない気だったらしく、夏目を促すように言った。
「何か買っていらっしゃい」
そう言って夏目を振り返った。夏目は動かなかった。誰もいない、神社の裏階段。遠くの喧騒。
「夏目さん?」
声が遠かった。その声を何度聞いたことか。
 行かないんですか、なんて。
 そんな、もう遅い。
 奏一朗なしで行けるものか。
 遠くの喧騒。
「……夏目さん?」
 離れないで。
 届かない体温を、探るように追い越す。奏一朗の呼吸を探るように同じ段に並ぶ。そうして、近くに居て奏一朗の手を握った。
「要らないわ」
そう言った。光は落ちてこなかった。静かな、何処までも遠い日常。手を握った。奏一朗の体温を確かめた。
 握り返してほしいとは思わなかった。
 ただこれ以上、奏一朗の体温から自分を離したくなかった。


***
 次の日、奏一朗が家を出た。起きると、奏一朗が消えていた。
 生活のものは何もかも残して、ただ奏一朗と彼がいつも着ていた浴衣だけが消えていた。その部屋にはもう奏一朗の体温はなかった。
「兄さん?」
聞いた。物音一つしない部屋に、その声は妙に空々しく響いた。
「兄さん?」
繰り返すと戻ってこないのだということが分かって、それは逸らしたがる脳に逆らって心の奥に響いて、夏目は瞬きをした。
 泣きたくないと思ったのだ。
 奏一朗は戻ってこない、泣いたら戻ってこないのを認めてしまう。
「兄さん?」
その声は天国のようだった狭い部屋に響いた。光は射してきて、ただあの体温だけがない。
 あの体温だけがないのだと思った。

 それから夏目は一人で暮らし始めた。月初めに口座に金が振り込まれたが、夏目は一切手をつけなかった。
 奏一朗が居なくても、日々は流れる。
「ただいま」
誰も居ない部屋にそれでも、夏目はそう言ってしまう。その部屋に奏一朗は居なくても。
『夏目さん』
そう、呼ばれることはなくても。
 いつも奏一朗が座っていた位置に座る。奏一朗がどうやって自分を見ていたのか思い出そうとした。目の前に自分は見えない。すっと通った奏一朗の痩身が視界にちらついた。障子を開け放したままにしていると、奏一朗の白い足が覗いている気がした。そこに座っても温かくはないのだ。窓際のその場所にはただ日の光が差すだけで、心に降り注ぐ温かさなどない。奏一朗の傍ら以外に、夏目の場所などなかった。
 そうして日々が過ぎていった。
 何気なく忘れていくようで
 まるで内側から干からびていくようだと思った。


***
 外には雪が降っていた。年がもうそろそろ変わる頃だった。そう言えば今年は炬燵を出していなかった、と夏目は思った。手足が冷え切っているのは分かっていたけれど、どうでも良かった。
 体温など、干からびていく自分には必要ない気がして。
『夏目さんは僕と居るんです。夏目さんの傍に僕が居るんです』
そう言ったのは奏一朗ではなかったのか。
 あの言葉が気に入らなかったのは
 嘘になる日が見えるのが嫌だったからだ。
 壜の底に溜まる埃のように、何処かで汚れていくのがたまらなく嫌だったからだ。
「兄さん」
そう呼ぶ。去年、年を越す時に願ったことはたった一つだった。初詣などには行かなかったが、一緒に除夜の鐘の音を聞いて、顔を見合わせて。笑ったのは、どっちだっただろう。
『来年も、再来年も、ずっと兄さんが居れば良いわ』
そう言ったのは、夏目だった。
 笑ったのはどっちだっただろう。
 その笑みは
 どういう意味だったのだろう。

 思い立って家を出た。どうやって行ったのか、一つ一つ記憶を辿った。あの時は、ただ奏一朗の後ろを追って行っただけだった。視界にちらつく浴衣。奏一朗の記憶。色褪せていくようでつかまなかった思い出を探した。
 神社は以前と同じように光に溢れていた。除夜の鐘が近い。身体を震わすような音楽が肌をなぶっていった。見上げると、あの時と同じように階段がそびえている。ただ一つないのは体温。
 奏一朗だけが居ない。
「要らないわ」
他のものなんて、要らない。奏一朗が夏目の全てなのだから。

 あの時、奏一朗が手を握り返してきたのは
 許してくれたのではなく離別だったのだと
 永遠の別れだったのだと、思った。

 体温は崩れて行く。同じ場所に居ても、居ない。
 奏一朗は居ない。
 あの日出て行ったまま、奏一朗は交通事故に遭って亡くなった。
 夏の日差しがきつくて
 アスファルトの押し付けがましい青に酔いそうだった。
 出て行って二日目だった。
 貧血で倒れたところをトラックに轢かれたらしい。
 出て行った時の浴衣のままだった奏一朗には、何も残っていなかった。
 濡れタオルを載せた額も
 夏目が握った手も
 あの日重なった体温も
 何も残ってはいなかった。

「死んだんだ」

 警察から父親に連絡がいって、夏目の方にも連絡が来た。会えなかった。ひどい状態で、とても夏目に見せられる状態ではなかったらしい。ただ母親も父親も泣きはらしていたようで目の端が赤かった。やつれていた。
 葬式には行かなかった。
 夏目は泣かなかった。
『夏目さん』
 そう呼ばれることはもうない。
 あの日絡まった体温がこの手に戻ることはない。


 逝ってしまうとは、思ってもいなかったのに。



 神社の階段を一段一段登って行く。あの時上ったのは七段目だった。奏一朗が一段下の六段目。手を握ったまま、夏目が一段だけ上って奏一朗を見下ろした。
 振り返ると、丁度正面に奏一朗の顔が見えた。
「もう少しこのままで居て」
 浴衣から外れた場所から、体温が漂っていた。暗がりで、自分の影で奏一朗の顔が翳っている。とても綺麗だと思った。
 額を合わせた。
 体温。
 頬をよせた。
 体温。
 唇に触れられた。
 体温。
「夏目さん」
そう、奏一朗が言った。そう呼ばれたのはそれが最後だった。
 帰りはずっと手を握って帰った。
 一言も要らなかった。
 ただ離さないでほしいと
 ずっとこのまま奏一朗の体温を感じていたいのだと思った。

 奏一朗以外の体温は要らないと、思った。



【体温/closed】


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