吾輩は猫である――名前が有るか無いかはどうでも良い、呼ぶ人等居ないのだから。けれど寂しいという訳では無い。此処には似たような輩が沢山居る。吾輩のような自由気侭な猫――所謂野良猫の溜り場になって居る日の当る階段。吾輩のように毎日来る猫も居れば、ごく偶にフラリと現れる猫も居る。此処はそう云う場所だ。人間達の交錯も似たような物で、此処は様々な輩が行き来する。悪い人間も良い人間も不幸な人間も幸福な人間も。
 あの二人は、そんな何処にでも居る人間の一部だった。


「あーあーあーあー! ねこねこねこねこねこーーー!ってミサカはミサカは大興奮してみたり!」
突然大声を掛けられて、辺りに居た仲間達が散り散りになってゆく。其の子供は階段を風の如き疾さで駆け上がって来た――だが流石に吾輩等猫とて獣の端くれ、子供が上がって来る迄に粗方階段の影へ姿を潜めた。吾輩は――階段の植込みに逃げ込んだ。決して怯えて足が竦んだのでは無い。其の侭、植込みの中で動かずジッとして居ると、子供が辺りをぐるぐると見回すのが見える。
 茶色い髪の、活発な印象の子供だった。些か薄着に過ぎる感はあるが、良く動くのであろう子供に合った動き易い服装だ。浮かべられた表情は明るい。一瞬目が遭いそうになったので吾輩は慌てて身を低くする。
「オイ、バタバタ走ンじゃねェよ」
子供は後ろから掛かった声に振り返る。植込みの死角となる方向から子供より幾分低い声が降って来た。吾輩は息を潜めて現れたもう一人の闖入者を観察する。そちらは人間にしては珍しく真っ白だった。毛も白ければ肌も白い。人間の年齢には明るくないが、恐らく同年代の者よりも幾分か華奢だろう。言葉尻は乱暴な男だが、舌打ちをしている割に苛々とした様子は無い。
「えー、だって走らないとねこさん逃げちゃうよ?ってミサカはミサカはゆっくり来たあなたのどんくささにいひゃいいひゃいくひいひゃい」
「杖見えねェのか、クソガキ」
子供の口を横に広げた男が吐き捨てる。其の侭、暫くじゃれ合うように二人は会話をしていたが、哀しいかな声が遠くなってしまい聞こえない。避難する時機を完全に失った吾輩は身を潜めて彼等が過ぎ行くのを待つしか無い。しかし子供はまたきょろきょろと吾輩等を探し始めた。
「うーん、ねこさんいないなぁ、ってミサカはミサカはしょんぼりしてみる……」
子供のしょげた声にウンザリしたのか、男がため息をついた。
「そこに一匹残ってンだろォが」
鋭い視線に吾輩の体が縮み上がる。シマッタ、と思った時には子供が此方に駆け寄って来て居た。
「わぁ! ホントだ!ってミサカはミサカはあなたの目敏さを見なおしてみたり!」
「あァそォ」
流石に植込みの中では動きが取り辛い。何より此の子供、意外と動きが疾い。決して吾輩の動きが遅い訳では無い。
「温かいねぇ、ってミサカはミサカはなでなでしてみたり」
吾輩は子供の手に思い切り撫でられる。親しみが込められている事は分かるが、如何せん力が強過ぎる。吾輩が短い声で鳴いて抗議しても子供には伝わって居そうに無い。どうにか子供の手を逃れようと藻掻いて居ると、フト子供の手よりも大きな其れがもう一つ吾輩の体に触れた。
「オイ、せっかちに構うンじゃねェよ」
「? どうして?」
「どォ見ても嫌がってンだろォが」
短く言った男の手付きは、慣れを感じさせる物だった。吾輩はあまり触れられる事が好きでは無い。其れを分かって居るかのような控え目な撫で方だ。吾輩は幾分か安心して男の方に身を寄せる。子供の手付きもやがて其れに倣い柔らかい物になって行った。
「ねこさんいつか飼えるかなぁ、ってミサカはミサカは呟いてみたり」
吾輩の毛並みを撫でながら、子供がポツリと言う。掌が僅かに緊張するのを吾輩は感じ取った。まるで子供は答えを恐れて居るようだった。
「さァなァ……」
一瞬、男が目を細めたのが分かる。其れは恐らく――孤独。吾輩のような野良猫のように、誰とも馴れ合わぬ孤独。男の其の表情は直ぐに鳴りを潜め、男が立ち上がった頃には欠片も残って居なかった。男は酷く素っ気無い口調で子供を急かす。
「オイ、行くぞ」
「うん」
子供が頷いて、無造作に男の手を掴んだ。男の目が刹那、見開かれるのが分かる。子供はそんな男の様子に気づかず、男を引っ張って歩き出す。夕日が二人に重なって、繋がった影法師を作る。
「ねこさんも、まったねー!ってミサカはミサカは手を振ってみたり」
振り返った子供が懐っこい顔で笑った――吾輩は手を振れないのに。其れで何となく吾輩は察した。きっと此の子供のそう云う躊躇い無く踏み込む愛情だけが、あの男を此の世界に繋ぎ止めて居るのだろうと。

 今迄、沢山の人間達を観て来た。悪い人間も良い人間も不幸な人間も幸福な人間も。あの人間達がどう云う道を辿るのか全く分からないが――其れでも、今日見送ったように繋いだ手を離さないで居れば良いと、そう思う。

 嗚呼、こう云うのを人間はどう云うのだったか。
 吾輩は喉を鳴らしながら彼等を見送る。去ってゆく彼等の影を見て居るとフト目が潤むのが分かった。

 そうだ――どうか、彼等が手を繋いでいるように。
 "病める日も健やかなる日も、常に――死が二人を分かつまで"


-------------------------------------------
今日谷中銀座に行ってきたのでそれだけで書きました…
猫はどうしてそんなに簡単に逃げるのん(´・ω・`)


inserted by FC2 system