彼の中の私は
何て幸せなのだろうと、思った。
***
「かったるい」
と、また授業をサボった彼を私は少し羨ましく思うこともある。生物学の授業を終えて少し遊びに行くと、彼は相変わらず寝転がっていた。部屋の荒れようから見ると、まだ鬱期、なのだろう。
「どしたの?」
聞かれて、無言でコンビニの袋を差し出すと疲れ気味の表情が和らいだ。やはりお菓子が好きなのだ。甘いプリンを袋から出してお茶を沸かし始めると、だるそうに彼が身体を起こした。
「んと、こっちが僕の?」
「うん」
そう答えると、彼は白い方を引き寄せる。どうせどっちも半分こするのだけど、癖みたいなもので、彼は気に入らない方を渡されると僅かに眉を寄せる。
「ニュースやってるかな?」
「多分」
リモコンでテレビをつけると、丁度ワイドショーをやっていた。彼の手が少し止まる。昼間から何腐ってんだ、という顔。私はそんな彼を見るのが少しだけ好きだ。奔放と言うより投げやりに生きている彼は、私にとって憧れと同時に嫉妬の対象だった。
「今日、どこまでいった?」
「九十ページまで」
「ふぅん」
「問六、試験出るって」
「ふぅん」
聞いているのか聞いていないのか分からない様子。窓の外で雨が降り始めるのをぼんやりと見ながら、二人で何とはなしにデザートを食べていた。
「これからどうすんの?」
「家帰って予習」
「ここに居ない?」
「雨が止むまではね」
彼は微笑って私に手招きをする。そうして、いつもみたいに少し彼の傍らで眠る。丸くなって、猫のように。そんな時に彼が見せる表情は、慈しみと愛しさと、ほんの少しの憎しみ。私はそんな顔をされるのが、すごく好きだった。
***
「角脇は?」
「休み」
「へぇ、アイツ大丈夫なのかよ?」
「知らない」
クラスメートと会話をしていると、当の彼がやってきた。
「須藤」
私の苗字を呼ぶ。教室のドアの辺りまで行くと、コロンと手の中に自転車のキーを渡された。
「あ」
「見つけたから」
「スペアあるから良いのに」
「良いんだ。どうせやることなかったし」
僅かな沈黙。今もちゃんと彼のために席を取っているのに、見ようともしない。
「次、何だっけ?」
「和田先生」
「あぁ、微分ね」
そう言って彼は時計を見た。
「そろそろ始まるな」
「うん」
「帰るわ」
彼はそう言って踵を返した。私は追いかけようとして、こっちに来る教官を見て、立ち止まって……結局席についた。教科書のページを捲る視線を少し逸らすと、窓の外で自転車を押す彼と目が合った。
彼は諦めたように笑った。
私は笑わなかった。
***
彼が風邪をひいた。一言も知らせてくれなかった。いつものようにコンビニ袋を提げて部屋に行くと、鍵を開けたままで彼はベッドに寝転んでいた。いつものままで、呼吸だけがおかしかった。
「かすが……?」
私の名前を呼んだ。
「いつから?」
答えずに質問で返すと、分からない、と彼は言う。体温計を渡して熱を測ると三十八度六分もあった。
「寝てなさい」
「いつも寝てる」
自嘲するように彼が笑った。
「良いから」
いつもとは逆に、私が彼に膝枕をした。
「風邪……うつる」
「良いから」
眠るまでずっとずっと彼の髪を撫でていた。彼の頬は熱かった。外は曇りで、でも泣き出しそうでも降らない雨が恨めしかった。
彼の頭をそっと枕に移して、お粥を作った。それから夜まで居て、バイトの時間になって、私は黙って帰った。バイト先に休みの電話をしようとする、嘘みたいな本能は頭を過ぎらなかった。バイト中は彼のことを忘れて、罪滅ぼしのように彼の好きなクリームパンを買って、ドアノブに袋を下げておいた。
二時頃に来た『ありがとう』のメールには返信しなかった。
***
今度は私が風邪をひいた。熱はあまりなかったので学校へは行き続けて、代わりに大分長引いた。部屋に居る時は殆ど寝てばかりで、予習も復習も追いつかなかった。ご飯を食べるのも億劫で、なるべくエネルギーを使わないようにしていた。
二週間ぐらいしたある日、コンコンとノックの音がした。ドアを開けると彼が立っていた。
「風邪、うつしたな」
言いながら、治ったらしい彼は私にゼリーの入った袋を差し出した。
「あがってかないの?」
聞くと
「お前、人を家に入れるの嫌いだろ」
と返す。私は、良いの、とだけ言って彼を部屋にあげた。
「ふぅん」
所在なげに部屋を見回した彼は、結局ソファに腰を下ろした。
「やっぱり綺麗好きなんだな」
「うん」
ゼリーをテーブルに出しながら、私は答えた。不揃いなスプーンを片方渡して、黙ってゼリーの蓋を剥がした。
「春日」
彼が呼んで、私の隣に座った。持たれかかりたくなってそうすると、彼は黙ったまま私の手を握った。
「……やさしいね」
言うと、別に、と答えて照れたように私の頭を撫でる。食べかけのゼリーは温くなってしまったけれど、悪い気はしなかった。
生ぬるい感触も、どこか優しい気がした。
***
夏が過ぎて、私はバイトをしていて、彼は毎日を気だるく過ごしていて。何となく一緒に居る時間が長くなった。
「須藤」
珍しくバイト先にクラスメートが来て、休憩時間に軽く世間話をした。私はお昼ご飯には大抵蕎麦屋さんでざる蕎麦を食べていた。
「そういやさ、角脇、大学辞めたんだって?」
「え?」
反応のない私に再度クラスメートは言った。
「いや、何か中退だって」
「……うん」
良く分からずに、気がついたら頷いていた。それからのバイトは上の空で、帰り際に彼の家へ寄った。
「おう」
それだけ言って、彼はいつもと変わらぬ様子で私を家にあげた。部屋の隅に大きなリュックが見えた。
「……どこ行くの?」
「分からん」
彼は答えた。歯切れが悪くて、私は苛々した。
「いつ行くの?」
「分からん」
「どうするの?」
「分からん」
「何なのよ?」
「分からん!」
彼が怒ったように声を荒らげた。こんな人だというのを初めて知った。
「分からん……けど、このままじゃ腐る。ダメになる」
吐き捨てるような口調だった。
「大学、辞めたの?」
「休学だよ」
「どうするの……?」
「知らん」
「貴方のことでしょ?」
「俺のことだよ!」
叫ぶようだった。やる気がない、現実から逃避していた彼ではなかった。
私は哀しかった。
どうしてかすごくすごく哀しかった。
「……かすが」
「何」
自然と刺々しい口調になった私に、彼は言った。
「眠い」
「眠ったら」
「ここに居てくれ」
「行かないわよ」
ちらりとリュックに視線を移す。
「貴方みたいに、黙って行ったりなんか」
言うと、彼がいつものように疲れたように笑う。いつか黙って帰った私のことを、彼は口にしなかった。
優しい、笑い方だった。
***
手を握っていて、色々考えて、色々なことを思い出した。
彼のことが好きだった。
彼と何処かへ行くのを想像した。
でも捨てるものたちのことを考えて、私は彼の寝顔を見つめた。
「…………」
呼んだことのない名を呼ぼうとして、でも躊躇われて、結局唇だけで彼の名をなぞった。
外は雨が降っていて、段々暗くなっていく。
「……かすが?」
彼が私を呼んで微笑む。
「起きたの?」
「うん」
「大丈夫?」
頷いて彼は口を開いた。
「夢、見たんだ」
彼は上半身を起こして、窓の外へ軽く視線を逸らした。
「春日が屋根裏の天窓から屋根に上って天体望遠鏡で空見ててさ。外は寒いから名前を呼んだんだけど、全然聞こえてなくて、しょうがないからずっとずっと待ってたんだ。待ち続けて、お前が降りてきたの見たらものすごい厚着しててさ……」
そこまで言って、彼は言葉を切った。
「どうした?」
こっちを見て、彼が手を伸ばす。その仕草で自分が泣いているのが分かった。
胸が痛かった。
だって、彼は――
彼の中の私は、あまりにも清んで
私は乾いていて
乾きすぎていて
彼の中の私は
何て幸せなのだろうと、思った。
「ごめんなさい」
私は謝った。
「ごめんなさい、私ついていけない」
そう、言った。
「貴方と一緒に、行けないの」
そう繰り返した。
後から後から涙が流れてきた。
私は甘えていたのだ。彼に安心していたのだ。彼を蔑んでいたのだ。彼を嘲笑っていたのだ。
「うん」
彼は穏やかに答えた。総て総て分かりきったような、諦めたような、私の好きな優しい顔だった。
「知ってるよ」
そう言って、彼は握っていた手を放した。そうして、もう少し眠るわ、と言った。
外には雨が降っている。さらさら、さらさらと降っている。
この部屋は温かいけれど
雨は止まないけれど
彼が目を覚ます前に、帰らなければと思った。
【He say love me, I say goodbye/closed】