それ、と声を掛けられて振り返る。
 真後ろに立った彼は、懐かしむような、少しバツの悪そうな顔をしていた。
「捨てンのか」
手にした毛布は、酷く色褪せてしまっていて、最早元が空色だったと分からないくらいに薄汚れている。度々日光に当てていたので匂いはそんなにしないものの、ぱっと見ボロ布に思ってしまっても仕方がない代物だった。本当は最後に洗ってやりたかったのだけれど、きっとそうすれば解れてどうしようもなくなってしまうだろう。
「うん……」
小さく呟いて、それを丁寧に袋の中に入れる。慣れ親しんだ感覚が離れていくのに少し、ほんの少しだけ感傷めいたものを感じて、打ち止めは涙腺が緩みそうになるのを唇を噛んで堪えた。捨てる方の山にその袋をわざと軽い調子で置いて、振り返る。
「大分綺麗になったね、ってミサカはミサカは部屋を見回しながら、うん、と伸びをしてみたり」


 引越しをすることになったきっかけは、黄泉川ののんびりとした一言だった。
『んー、そろそろ手狭になってきたしどっかでかい家でも買うじゃん? どーんと!』
無駄に厚い住宅情報誌をテーブルにおいた黄泉川に、一方通行は言う。
『この家、気に入ってねェのか』
『いや、気に入ってるじゃん? じゃなきゃとっくに移動してるじゃん』
けどねー、と黄泉川はぐるっと部屋を見渡す。けして広いと言えないリビングには、コーヒーをソファで啜っている芳川、テレビの前に陣取って格闘ゲームに勤しむ番外個体、テーブルに頬杖をついている一方通行、そしてその隣で仕切りに彼に話しかけている打ち止め、と見ようによっては定員オーバーなメンバーが揃っている。番外個体が来た時点でテーブルの椅子は一脚、備え付けでないものになってしまったし(ちなみにそれには一方通行が座っている)、ソファに全員集まろうとすれば誰かしらがカーペットの上に座ることになってしまう。
『もうちょっと広いとこに引っ越しても良いじゃん?』
『……そォか』
ポツリと言った一方通行の声を打ち止めはよく覚えている。
 その次の日には、一方通行は部屋を出ていくと言い出した。もう決めてきた、と判の押された契約書と部屋の鍵を何でもなさそうな顔で見せて。打ち止めが準備をしたのはその日の夜のことだ。彼はいつ、出ていくとは言わなかった。だから見張ってないと絶対に置いて行かれると、そう思ったのだ。


 ハァ、と傍らでため息をついた一方通行に、打ち止めは首を傾げる。
「なぁに?ってミサカはミサカはアナタに尋ねてみたり」
「……オマエには、ホント参った」
首に手をやって再度ため息をつく彼に、打ち止めは笑ってしまう。
 案の定こっそりと出ていこうとしていた彼を阻止するために、玄関先で張ったり、靴を隠してみたり、挙げ句の果てには一緒に眠ったり、あらゆる手段を講じてついていこうと試みて、ついにこんな言葉を引き出せたのだから。
「ミサカを置いてこうなんて百年早いよ!ってミサカはミサカは胸を張ってみる」
「そォかよ」
一方通行は目を細めて、ほんの少しだけ唇の端を歪めた。それは、彼なりの、気を許した人間にだけ見せる笑みだということを打ち止めはもう知っている。
「取り敢えず、もォ寝ろ」
明日は早いから、と付け足して、一方通行は打ち止めの髪をくしゃりと撫でる。打ち止めは、うん、と頷いて彼の肩に頭を寄せる。
「オイ、」
一方通行の僅かに狼狽したような声が聞こえて、打ち止めはそれが嬉しくて彼の肩口に更に頭を押し付ける。彼の匂いを享受する――まるで飼い主に甘える子猫のように。
「アナタ、逃げちゃいそうだから……だから、」
ちょっとだけ、そう言いながら。打ち止めはうとりうとりと夢の世界に足を踏み入れた。


 目覚めると、最初に感じたのはふわふわとした感触だった。温かい匂い。目を擦って状況を把握しようと試みる。
「……?」
視界に飛び込んできたのは鮮やかな空色。
「…………わ、」
いつかの色を取り戻した毛布が、自分を包み込んでいる。毛羽立っていた表面はすっかり綺麗になっており、寧ろ元以上の輝きを放っている。
(…………あ、もしかして、)
打ち止めは、一方通行を思い浮かべた。彼の能力を持ってすれば、毛布についた汚れを落とすことなど造作もないことだったのだろう。尤も、そんなことに能力を使ってしまうのもどうかと思うが。
(でも、とりあえずお礼は言わなきゃ、ってミサカはミサカは、)
そこで、はたと辺りを見回す。
「…………あ、」
荷物は、すっかり消えてしまっている――彼もいない。その事態に、打ち止めの鼓動は激しくなる。

 まるで、置き土産のような毛布。
 足元の地面がまるごとなくなってしまったかのような不安定さが、背筋を這い上がってくる嫌な予感が、不安をかき鳴らす。

 ごくり、と唾を飲み込んだ音がやけに大きく聞こえて。
「…………あくせられーた?」
そう、小さく名を呼んで毛布を羽織って部屋を出る。とたとたと言う自分の足音が妙に響く気がして、打ち止めの歩みは次第に重くなっていく。

 もし、居なかったら?
 また、彼に置いていかれてしまったら?

「あくせら、れーた?」
最初は、小さな声で。そのうち不安をかき消そうとするように声は徐々に大きくなり、やがて叫ぶような声で打ち止めは彼の名を呼ぶ。
「あくせられーた!!」
「なンだよ」
真後ろからの声に打ち止めは飛び上がった。振り返ると、一方通行が呆れた顔で立っている。恐らく外から戻ってきたのだろう、家の中に居なかったのならばどれだけ呼んでも気づかなかったに違いない。
「……オイ、何泣きそうになってンだよクソガキ」
打ち止めの顔を見た一方通行はぎょっとした顔で言う。
「ばかー! ばかばかばかばかばかー!ってミサカはっ……ミサカは」
「馬鹿はオマエだろォが、早いってたのに寝こけやがって」
ぽかぽか胸の辺りを殴っていると、上の方から呆れた言葉がかけられる。けれど、受け止める腕はどこか優しい。
「さっさと泣きやめよ」
そう、一方通行の呟くような囁きが聞こえる。打ち止めは毛布を体に巻きつけたまま、一方通行の体にぎゅっと自分の体を押し付けた。


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打ち止めは置いて行かれることに関して多少トラウマになってても仕方ないと思う
んでもって、それにもやしは絶対に気づいてないと思うので、
日常の中でもどこでも良いからそれに気づいてあげた方が良いよね、という話


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