――この世で、一番大切なもの――



 指は、ボタンを押す寸前で止まっていた。機械的に消去を繰り返すその行為に、もうすぐケリがつく、その最後。ディスプレイの中の笑顔が、自分の動きを止めていた。
 明るい茶色の髪、活発そうな表情。自分の根底にある、平和の象徴。
(阿呆)
だからこそ、消さなくてはならないのに。それでも指は動いてくれなかった。さよならを言う暇もなかった一方通行に残されたのは、ほんの少し抱きとめられた腕と記憶だけだ。思えば、あの少女と接した期間はそう長くはなかった。だから自然覚える程の思い出も少ない――ただその数少ないそれがあまりにも温かいだけで。
(……チクショウ、)
もう何度目か分からない自分への呪詛の言葉。
 たった1センチの距離が埋められずに、一方通行は目を瞑る。脳裏に映ったのは、温かな笑顔だ。今日も押せなかったボタンを、明日押せる確証はない。そうしてズルズルと一方通行は、人生にただ一つ残ったメモリーを守っている。



 目が覚めて体がようやく動くようになった頃、最初に顔を見せたのは自分に一方的な取引を持ちかけたあの男だった。ベッドから視線をやっただけで無視していると、視界の端で何かが動く。投げつけられたのは携帯電話と慇懃無礼な笑みだった。
「随分としっかりしたプロテクトですね……流石は学園都市第一位。真に貴重なのは能力ではなく頭脳でしたね。忘れてましたよ」
「お褒めいただきアリガトウ。礼に能力(チカラ)も食らわせてやろォか?」
体を起こして臨戦態勢を取ると、まるで他意はない、とでも言うように男は手を広げる。何も持っていない、というジェスチャーは、こちらを馬鹿にしているようにも見えた。
「いえいえ、結構ですよ。それに今日は怒らせに来たわけじゃない、快気祝いをしたいと思いまして」
「快気祝いだァ?」
「まぁ祝いと言うか、歓迎ですね」
勘づいて開いた携帯電話には打ち込んだ覚えのない、けれど見慣れた文字の羅列が踊っていた。マンションの住所、同居人たちの名前。わざとらしく打ち止めには検体番号20001号、という但し書きまでついている。
「……どォいうつもりだ」
携帯電話を握りしめて睨みつけると、男は苦笑を漏らした。
「貴重なあなたの頭脳ならお分かりでしょう」
言われて舌打ちをする。一方通行は悟っていた。この男が自分の携帯電話からこれだけの情報を辿れたということは、暗部の他の人間もそうだと言うことなのだ。
 自分に残った"日常の匂い"はそれだけで――あの光の下の人間たちを危険に晒す。
「ようこそ、学園都市の暗部へ。我々はあなたを歓迎します」
何も言い返せない一方通行に、男は反吐の出るような笑みを浮かべて言った。


『お使い頼んだじゃん? 豆腐、木綿の方よろしく!』
 一つ、思い出を。
『例のメモ。悪用しないように。君を信用して渡すんだから』
 一つ、消し去って。
『いつ帰ってくるのー?ってミサカはミサカはぷんすかして待ってたり!』
 一つも、残らなくなることを。
 まるで、表の世界を切り離すような、自分の手で切り落としていくような――そんな感覚だった。きっとアイツらはそれを教え込んで、"飼われる"感覚を自分に植えつけようとしているのだろう。
(あァ、正しい判断だ)
確かにそれはある意味、"仕事"をすることよりももっと感情が磨り減る行為だった。



 隙間から細く光が射し、次の瞬間カチリと電気がつく。
「目が悪くなるぞ」
「じゃァオマエもその胡散臭ェサングラス外したらどォだよ」
あからさまな、何の用だという一方通行の態度にも、土御門は動じない。真っ暗な部屋の中、ベッドの隅で座り込んで背を壁に預けた一方通行を見ても。手にしている携帯電話で事情を悟ったのか、土御門は肩を竦めた。
「何だ、まだやってたのか」
歩み寄る土御門の調子は酷く軽かった。近づいてくる土御門を、一方通行は働かない思考で見上げる。携帯電話の端を取られる。引っ張られて、あっさりと手からそれが離れていく。
「触ンな、」
言った言葉は、もう遅い。土御門が取り上げた携帯電話のディスプレイを見てにやりと笑った。ボタンにかけられた指。体を起こして手を伸ばしても届かない。軽業のように遠ざかった土御門が言う。
「本当に覚悟があるのか――試してやるよ」
指の動きを見たその瞬間、一方通行の感情は爆発した。



 片頬をさすりながら土御門は扉を開ける。先客は結標だけだった。置いてきた一方通行はともかく、海原も席を外しているらしい。
「酷い顔ね」
呆れ顔で結標は言う。
「思い切り殴りやがった……これだから素直じゃない奴は困る」
土御門は手にした携帯電話をひらひらさせた。表示されているのは多分、一方通行が何を引換にしても守りたいもの。彼から携帯電話を取り上げてデータを消去する刹那、土御門が自分のそれに転送しておいたものだ。結標は事態を把握したのか、軽くため息をついた。
「甘いか?」
問う土御門に、結標は首を振る。
「守りたいものもない状態じゃ、いずれ先なんて見えてるわ……それに、」
「それに?」
「単に意地が悪いだけでしょう」
結標は言う。
「違いない」
そう土御門は笑った。


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何故か今更13巻〜15巻捏造…今のもやしも良いけど暗部もやしも良いですよね!
実はグループ好きなんですが…ほら、色々残念な感じじゃないですか…
かまちー忘れてないかなぁ、心配だなぁ…


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