丸く切り取られた最後の空には、貴方が見えたから――
 多分もう、何も怖くないわ。




***
 爆弾が落ちてくる――そう囁かれ始めたのはいつの頃だったか。


 まぁ何にせよ、僕らの国はどこかの国と戦争を始めていて(情報統制なのか、正確な国の数は分からない。けれど、あの大国が混じっている時点で勝てやしないだろう)、何もかもが不安定になり始めていた。日常は相も変わらずくるくると続いていたけれど、それとて『昨日と同じ』こと以外を、どうやってどのタイミングで始めたら良いのか分からなくてどうしようもなかった僕らの、単なるモラトリアムに過ぎない。やれ誰がパイロットに採られただとか、誰が疎開しただとか聞くけれど、ただでさえ狭い自分の世界の端にも掛からないものが徐々に欠けていったからとて、何がリアルになるわけでもなかった。


 そんな僕がリアルの欠片に触れているとすれば、放課後の、この瞬間だけだった。
「なぁ、」
「なぁに?」
丸く切り取られた空間の中、優雅に本を読んでいた彼女は、僕の方に目を向けることもなく返す。普段、蓋の開いた貯水タンクには透明なビニール傘が差されている。
「今日は、何を読んでるんだ?」
「さぁ?」
「さぁ、って……」
言った僕の言葉をほぼ無視するように、彼女は寝そべっていたソファから上体を起こす。日の光の当たる位置に顔が来て眩しかったのか、彼女は目を細めた。
「もう、秋なのにね」
日差しが思ったよりきつかったのだろう、彼女はもう一度寝転がる。今度は本を読む気はないらしく、だらり、と手足を投げ出したままだ。その華奢な体は、いつも暗がりにいるせいか真っ白で、酷く頼りない印象を受けた。
「まだ、秋だよ」
そう話しかけた声は、聞こえなかったのだろうか。彼女は何も返さなかった。



***
 雨が、きっと反響しているのだろう。
 貯水タンクには、いつものように傘で蓋がしてあった。それは、彼女が中にいる証拠だ。
 僕は梯子を登る。途中で手が滑りそうになって初めて、思ったより濡れていることに気がついた。立ててしまった音は、多分中を揺らしてしまって、僕が来たのに、彼女は気づいたに違いない。
 登りきった貯水タンクの上には黒い空が広がっていた。シェルターみたいに、透明な傘は中にいる彼女を守っている。

 けれど――彼女は、外に出なくてはならないらしい。

「なぁ」
一度目は、返事なし。
「なぁ、いるんだろう?」
もう一度声をかけると、がさり、と下で物音がする。その音はともすれば雨音に消されかねない、小さなものだったけれど。
「聞かないでいてくれたのは、貴方だけよ。ありがとう」
彼女はそう言った。
「…………それは、」
「認めたくなかったから、と言うのだろうけれど、でもそれだって貴方の優しさだわ。自分の心を落ち着けるために、私を咎めたりしなかったでしょう」
雨は容赦なく辺りを叩いていく。貯水タンクの鉄板も、屋上のタイルも、透明なビニール傘も、そして僕も。寒いのはきっと、そういった全てを嬲っていく雨のせいなのだ。
「僕は……蚊帳の外の人間だ」
「…………」
「パイロット適性の、なかった人間だ。だからこうして笑ってられるし、守られるだけになっている。それを悔しいと思ったことはないんだよ……だって、」
その先の言葉を飲み込もうとして、けれど結局僕は耐え切れなくてほとんど吐き出すように繋げた。
「だって、僕は……戦わなくて良いんだから。誰かの為に死ななくて良いんだから」
丸く切り取られた視界のその底に、彼女の姿は見えない。雨が世界を覆っているから、それから彼女を守るようにビニール傘が邪魔をしている。


 まるで、この貯水タンクは、彼女を孕んでいるようだ。
 これから戦う彼女を孕んで――そして、時が来れば容赦なく彼女を産む。


「卑怯ね」
予想通りの言葉のはずなのに、言われた瞬間、心に漣が立った気がした。けれど、見下ろした彼女の表情は、笑っていて、
「良いのよ」
その声も酷く穏やかだった。
「考えるのには、飽きたの。もう嫌なのよ。戦う以外の方法を模索することに疲れたの――だって結局、誰かが戦わなくてはならない、というのは一つの正論だわ」
まるで、枯れていくように、穏やかだった。
「そして、それが自分であって欲しくないと言う感情も、本当。そういう正論と感情がごったになったものをね、跳ねつけられるほどの完膚なきまでの正論なんて、考え付かないもの」
まるで、諦めていくように、穏やかだった。
「来るべき時に戦う。それで良いじゃない」
見上げた彼女の視線に、僕は何も返せない。
「それとも、」
彼女の声の密度が高くなって、その時僕はようやく、僕らを隔てていたビニール傘がいつの間にかどこかへ転がってしまっていたことに気づいた。容赦なく顔に降り注ぐ雨が、彼女を濡らす。

 否、彼女を見下ろしている僕の体が、雨から彼女を守っていた。
 ならば、彼女の頬が濡れているのは――

「私と……代わってくれる?」
ぞっとするほどの乾い声で、彼女が手を伸ばす。



***
 爆弾はもう落ちてこないらしい――そう囁かれ始めたのはいつの頃だったか。


 気がつけば戦争は終わり、疎開もしなかった僕の平穏な日常は、結局平穏な日常のまま続いていた。何が変わるでもなかった。
 一瞬だけ触れたリアルは、本当に痕跡も残さずに消えてしまって、丸く切り取られた世界があったあの場所には、今や花が咲き乱れる空中庭園が出来ている。

 そこには、
 ――人一倍の働きをした、ある兵士の墓標があるらしい。
【ruin/closed】


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