□■■□
鶴見はひょろっとした背の高い男だ。それ以外には特徴なんてない。クラスにひっそりと存在していて、何の害もなく過ごして、一年経ったらそれでサヨウナラ、みたいな。その鶴見があたしに初めて言ってきたことは少なからずあたしを驚かせた。
「十和さん、僕と付き合ってみませんか?」
あたしは突然のその物言いが理解出来なくてしばらく放心してた。あたしは生徒会長として会議を進めていたのだ。さっきから文化祭について論じていたのだ。
『他に質問は?』
『十和さん、僕と付き合ってみませんか?』
会話として噛み合ってないこともない。いやいや違う。今生徒会室では会議中なのだ。
「他に質問は?」
鶴見の発言を無視してあたしは強引に話を進めた。周りはざわざわ言うけれど、議事録でバンッと机を叩くと途端に水を打ったように静かになる。
「返事がありません」
鶴見が挙手して言ったがあたしは無視した。
「では無いようなので議決事項の承認に移ります…」



□■■□
「災難だったねぇ」
牛乳を飲みながらからかうように言ってくる桂を無視して、あたしはサンドイッチの袋をビリリと破いた。中途半端に止まる。気分が悪い。
「鶴見君、そういうタイプに見えなかったけどなぁ」
「何がよ」
「あんたに告るような自殺行為するタイプ」
「うるさいわね、ほっといてよ」
無理矢理引き出したサンドイッチは不格好になってしまっていて食べにくいことこの上ない。手に付いた具を舐めてから、あたしはなるべく具がはみ出した所から食べ始めた。
「無視して採決とる辺りが『鉄の女』らしいけどね」
「二度も言わせないで。うるさいわよ」
肩を竦めた桂が諦めてお弁当を開け始めたと思うと、不意にその視線が窓の外へ向いた。
「あ、噂をすれば」
ピクリ、と反応するのを抑えられなかった。
「何の噂よ」
飽くまでポーカーフェイスは崩さずに呟くと、桂が窓の外に大きく手を振った。
「おぉーい、鶴見君! 真純ここだよー!!」
顔を上げた鶴見がこっちを見るのが見えた。視線を逸らすのもあからさまに意識してるようで悔しいので、普通に冷たい目を向ける。
 侮蔑。
でも
 鶴見はそれが分からないかのように
 呆れるほど素直な顔で笑った。



□■■□
鶴見がそれからあたしに何か言ってくることはなかった。会議でも静かだし、教室で話しかけてきたりもしない。全くのいつも通り。まるであんなことがなかったかのように、そもそも鶴見という存在が希薄すぎた以前のように。文化祭前であたしは忙しかったし、(桂曰く)鶴見は鶴見で部活で忙しいらしく特に問題は起こらなかった。
 ただ
「あ、鶴見君だ」
校門の傍でいつも鶴見は誰かを待っていて、あたしは相手が誰かを知ってながら無視して通り過ぎてく。その時いつも鶴見が見せる表情は驚くほど静かで、穏やかで、あたしは男でもああいう顔が出来るんだ、と時々驚く。
 でも、それだけ。
 そんな顔を見せるからといってあたしは鶴見と一緒に帰る気は更々なかったし、鶴見の方でもそれを分かっていて、それでもあたしを待っているようなのだった。あたしの家は学校のある駅から三つ先の駅、五番町の辺りで、鶴見もその辺りに住んでいて、電車も一緒だった。でもそれは朝にたまたま乗り合わせるとかそんなのだけで、決して帰りは同じ電車にならない。
 鶴見は、意識してあたしを避けてるようなのだった。



□■■□
 その日は雨が降っていて、あたしは傘を持ってなかった。迂闊だったのだ。小さい鞄の方が可愛いとか、でも辞書は置いていけない、とかそういうことを気にして、結局あたしは折り畳み傘を持ってこなかったのだ。
 校門のところで待っている鶴見の姿が、昇降口から分かった。ひょろりと高い身長。意外なことに傘は明るい青だった。きっと母親か誰かが選んだのだろう。と、その傘があたしの方へ動いた。
「十和さん」
傘の主が言う。
「傘、忘れたの?」
「見れば分かるでしょ」
あたしは言った。鶴見は傘を閉じて昇降口に入ってきた。軽く頭が濡れている。
「どうしたのよ?」
聞くと、まだ帰れないみたいだから、と鶴見は答えた。帰れば、と言うと首を振る。
 しばらく二人で昇降口に、馬鹿みたいに並んでた。あたしは早く晴れないか、って空ばかり見ていた。はっきり言って気まずかった。告白されてから二人きりで話をするのは初めてだった。
 こんなに近くにいることも。
「……雨、已まないね」
バサっと鶴見が傘を差した。そうして振り向いて
「帰ろうか」
と言った。


 男の子と並んで歩くのは初めてじゃなかった。今まで、人並みに誰かと付き合ったことだってある。でも鶴見はそういった男の子達との、何処かくすっぐったいような、甘い緊張とは全く違うものを感じさせた。
 重い帰り道。
 電車を降りるともう雨は已んでいて、傘は必要なかったけれど、でも何故か並んで帰った。
 影が長く長く伸びている。
 ぽつり、と鶴見が口を開いた。
「ヒーローの話を、していいかな?」
唐突に言われた。
「は? ヒーロー? あなた特撮とか好きなの?」
「違うよ」
少し苦笑して鶴見が言う。片えくぼ。
「僕の、ヒーローの話」
珍しく饒舌な鶴見の表情にあたしは面食らった。こんな、笑い方もする。こんな表情、見たことがない。
 寂しいような
 懐かしいような
 裏切るような
 遠ざかるような
 そんな、陰影の鮮やかな笑み。
「昔、いじめられっ子だったんだ」
 まばたき。
「昔って、小学生くらいの頃だけど。あのくらいの頃って身体的特徴で馬鹿にされることって結構あるよね。デブとかブスとかって。僕の場合、もやしだったんだ。ヒョロ長いから。いや、今もだけど」
 呼吸。
「小学校にあった、変なジャングルジム、覚えてる?」
「あのまだら模様のやつ?」
「そう、半分錆びたやつ。今はもうないけど。僕はよくあそこでからかわれてたんだ。ある意味残酷だよね、ああいうの。もやしは直しようがないし、どうしようもない」
照らされる顔の半面は、もうあの頃の影を残してはいない。
「でも、そんな時」
「知ってるわ、ヒーローが現れたんでしょ」
鶴見はちょっと驚いたような顔であたしを見た。それから納得したようにふっと笑って、続けた。
「そう、ヒーローだったんだ」
 髪を後ろで束ねて、目深に帽子を被ったヒーロー。あの変装は女だとばれないためにしてたけど、よく考えたら制服のスカートのままだったから、丸分かりだったはずだ。あたし、何考えてたんだろう。
「ヒーローは僕を助けてくれた。ちょっと抜けててね、『あたし、もやし好きよ』って言って笑ってた。最高に格好良かったよ。助けてくれた帰りはいつも二人でね。そうして」
彼は立ち止まった。
「この辺りで別れるんだ」
あの頃の目印だった消火栓の赤い柱はもうなくなってしまっていたけれど。
 あたしは鶴見の顔を見た。
 もやし君はあの頃もあたしより背が高かったけれど、あの頃ほど貧弱じゃなかった。浮かべてる表情もずっと穏やかだった。鶴見はちょっと困ったように笑うと、さよならヒーロー、と言った。
 あの頃みたいにあたしは彼の背が見えなくなるまで見送った後、同じ道を歩き始めた。別れた場所から六軒目が、あたしの家だった。



□■■□
 あたしは裁縫が苦手だ。決して下手ではない、と思う。作業が遅いだけだ。桂は『いちいちきっちりやってるからトロイのよ、真純は』と言う。とにかく作業が遅いだけなのだ。家庭科の成績はテストで誤魔化せるから関係ない。でも課題というやつは出来が良かろうが悪かろうが提出しないと駄目だから困る。忙しい合間をぬってでもとにかく作らなきゃならないから、困る。
 ちょうど生徒会の用件が一段落したのであたしは家庭科室に向かった。下校時間まで後一時間もない。こういうとき生徒会長という役職は面倒だ。自らすすんで規則を破るわけにはいかない。バレなきゃ良いのだけれど、あたしはそこまで器用……というか柔軟に物事を考えられない性格なのだ。
 生徒会室から家庭科室までの廊下は暗い。多分、もうこの辺りにほとんど生徒は残ってないのだろう。窓から入ってくる光が薄い。そんな中、ふと前方に灯りが見えた。
 家庭科室。
 がらりとドアを開けると、振り返った視線と目が合った。
 鶴見。
「あ、十和さんも?」
気さくな顔で鶴見が笑った。あたしはなるべく顔を彼に向けないようにして、そうよ、と答える。ひょろりと長い鶴見が大人しく裁縫している姿は少し笑えた。良く見ると手先は意外に器用らしい。
「早いわね」
「え、何が?」
「意外に手先が器用ね、って言ったの」
言い直して、あたしは鶴見と同じテーブルに腰を下ろした。正面でも隣でもなく、右斜め前。
「なかなか終わらないから、器用とは言えないよ」
苦笑した鶴見があたしの手元を少し覗き込んだ。
「……針、怖いの?」
「……違うわよ」
思ったよりも不機嫌な声音になった。あたしはそのまま黙って針と布に集中する。
 鶴見が自分の作品に目を戻すのが分かった。そのまま、ちくちくと手を動かし続ける。あたしは沈黙があまり得意な方じゃないから『あ、絡まった』とか『ズレた』とか独り言を言いつつ作業を続けた。十五分もすると、鶴見は糸切バサミを出した。終わってしまったらしい。
「終わったの?」
「うん」
裁縫セットを片付け始める鶴見に、何故かちょっと裏切られた気分になった。
「苦手なもの、あるんだね」
意外そうに鶴見が言った。あたしは不機嫌なまま答える。
「あるわよ、ちょっとくらい」
うん、そうだね、鶴見はそう言いながら椅子を片付けた。一人になるのはどうにも嫌で、あたしは言った。
「手伝ってくれない?」
「口だけでしょ、十和さん。実際にそう思ってない」
痛いところを突かれてあたしは黙った。確かに、手伝ってもらう気なんかない。
「ここに居てほしいなら、居るけど」
「…………」
何気なく言ったその一言が、どれだけ恥ずかしいものか鶴見には分からなかったらしい。あたしは肯定も否定もせず、そのまま作業をした。
 鶴見は黒板の辺りに立っていた。
 こっちに来たら、とも、そっちに行っていい、とも言わなかった。ただそのままあたしが黙っていたら、鶴見がまた椅子を出してきて、今度はあたしの隣に座った。
「ヒーローになりたかったんだ」
鶴見がいつもと同じようなぼんやりした調子で呟いた。呟いてから、少し困ったように笑った。あたしは鶴見の右でちくちく針を動かしながら、どうでも良い風を装って返す。
  「どうして、あたしにそんなこと言うの?」
ヒーローだからだよ、そう言われたら殴ってやろうと思った。でも鶴見はちょっと照れたようなしぐさをした後こう言った。
「十和さんだからだよ」
「……はぁ」
呆れた声を出すつもりだったのに、口に裏切られた気分になる。甘いわけでもなく、突き放すわけでもなく、戸惑ったような声しか出なかった。
「ここに居てほしい?」
鶴見が聞いた。
 あたしは答えなかった。
 日が過ぎていって、周りの色がどんどん冷たくなっていく。乾いた青が窓の外をさらっていく。
「十和さん」
鶴見が呼んだ。あたしは、何、とだけ返した。
「キャンプファイヤー」
「?」
「ってどう?」
「どうも何も危ないわよね」
手元から集中を逸らした途端、指をちくりと刺した。少し後悔してまた作業に集中する。何故そんなに唐突に鶴見がそんな話題を出したのか分からなかった。
「今年の文化祭の最後に、やらない?」
「出来ないわよ」
あたしは即答した。
「どうして?」
「危ないでしょ。それに今から先生に案を提出してたんじゃきっと間に合わないわ」
「絶対に?」
「……そりゃ、絶対じゃないけど」
言い渋ると、鶴見がじゃ、決まり、と明るい声で言った。
「無理よ、先生を納得させる案なんて今から作れるわけないし、安全面とか……」
ばさり、とテーブルの前にプリントが投げ出された。
「出来ると思うよ」
鶴見が笑う。
「何これ?」
「え、キャンプファイヤーの案だけど」
「そうじゃなくて、何時作ったの、これ?」
「こないだから作ってたんだ」
悪びれもなく鶴見は言う。
「……だって、もう否決したじゃない」
「具体案がないからお流れになっただけだよ。だから作ったんだ」
指先に集中する。
「十和さん?」
鶴見が呼んだ。
 あたしは答えなかった。



□■■□
 そう言えば、確かにその予兆はあった。例えば廃棄してあった木材が消えてたりとか、そう言った些細なこと。
 あたしは鶴見が置いていったプリントの束を眺めた。
 鶴見はあたしをヒーローだ、と言った。それはやっぱり、そういう意味なんだろうか。あたしが何でも出来る、スーパーマンみたいな奴だと思っているんだろうか。
 だから、あたしなんだろうか。
「真純、何それ?」
桂があたしの手元を覗き込んだ。慌ててその視線を遮る。
「何、議案?」
「……そんな感じ」
あたしは言って、プリントを裏返した。これを提出するかしないか決めないといけない。責任者はあたしだ。失敗したとして、責任をとるのはあたしなのだ。
「……あんたさぁ……」
桂が言い出した時、呼び出しがかかった。
『2−Dの十和、2−Dの十和は至急職員室まで来なさい。繰り返します……』
思わず条件反射でスピーカーを見上げると、桂が苦笑した。
「また出勤か。行ってらっしゃい」


 呼び出される理由は山ほど思いついた。決まった事項をまだ説明してなかったし、昨日は居残り時間を過ぎても残っている生徒が多かった。だけど、そんな内容は予測してなかった。
「これは、どういうことかね?」
学年主任の川添先生があたしに見せたのは、放送室の使用要請書だった。
 学園祭の最終日の日時と使用目的が書いてあった。
『キャンプファイヤー』
「……それは」
「否決されたんじゃなかったのかね」
「……具体案はありませんでしたので」
「困るんだがね、こういうのは。安全面やら羽目を外す生徒の管理やら……」
クドクドと先生のお説教は続く。あたしは一言一言を漏らさず聞きながら、気にすべきこととしないべきことを素早く頭の中で分けた。結局前者は全体の三割もなかった。
「で、キャンプファイヤーはするのかね?」
明らかに反対意見と文句だけを述べた挙句に、先生は言った。
「……分かりかねます」
お説教が伸びるのを覚悟した上で、あたしは答えた。先生がくどくどと続けようとした瞬間、職員室のドアが開いた。
「先生、十和さん、まだ居ますか?」
鶴見だった。
「そろそろ会議なんで生徒会室に戻ってもらわないと困るんですけど」
あたしは先生を見た。先生は時計を見てため息をついた後、行きなさい、と言うようにくるりと椅子を回転させた。あたしはお辞儀をしてドアから廊下に出る。
「ごめん」
待っていたらしい鶴見が言った。
「何が?」
「……キャンプファイヤーの話じゃなかった?」
「そうよ」
嘘をつく必要も感じなかったので、あたしは正直に答えた。鶴見は申し訳なさそうに言う。
「怒られたの?」
「お説教されただけよ。慣れてるわ」
何だか急に苛々してくるのが分かった。何でそうなるのかは分からない。でも、このままだと鶴見に当たってしまいそうだった。
「どうだった?」
鶴見がちょっと期待したような顔で聞いた。
 あぁ、そうか、あたしは思った。
 あたしが、不可能を可能にすると思ってるから、鶴見にとって、あたしはヒーローなんだ。  例えば、いじめっ子から救ってくれたりとか  例えば、キャンプファイヤーを実現させてくれたりとか。
 冗談じゃない。

「分かりかねるわ」
あたしは答えた。
 意外そうな鶴見の顔のその表情に、僅かに失望の色が混じるのを、あたしは見逃さなかった。



□■■□
 結局、キャンプファイヤーについてはまともな結論も出ないまま学園祭になった。あたしは鶴見と顔をあわせなかった。それでも、時間は刻々と迫る。あたしは忙しく校内を歩き回っていた。去年に増して学園祭は騒がしい。キャンプファイヤーがあるらしい、という実しやかな噂の影響もあるのだろう。
「会長さん」
誰かが呼んだ。振り返ると、見覚えもない女生徒たちがあたしに袋を差し出していた。
「何?」
「これ、鶴見君から」 開けてみなくても感触で分かった。カセットテープだ。
「凄いですね、キャンプファイヤー。楽しみにしてます」
あたしは彼女たちを見返した。何故だか、大声で非難したい衝動に駆られた。
 そんなこと、知らない。
 どうして、最後に全てあたしへ任せるのだろう。
 キャンプファイヤーをしたいのは、あたしじゃない。
 みんな、ヒーローを待ってるだけだ。
 面倒ごとを引き受ける、ヒーロー。
 罪を被ってくれる、ヒーロー。
 自分では
 何もしないくせに。
「知らない」
あたしは言って、袋を着き返した。あたしの行動に女の子たちは目を瞬かせた。
「あたしは、こんなこと頼まれてない」
「え……だって」
「キャンプファイヤーなんて先生の許可もらってないんだから、出来ないわよ」
失望するような顔を、非難するような顔を、どうしてあたしに向けるのだろう。
「そんなの聞いてない!」
女の子たちの一人が言った。焦ったようにお互いに顔を見合わせている。
「待って、鶴見君に聞いてみる」
「必要ないわよ。無理だもの」
あたしはその行動を遮った。
「キャンプファイヤーなんてそんな、非現実的な話」
小馬鹿にしたように聞こえたのか、彼女たちの表情が強張った。
「どうして……話が違うじゃない! 楽しみにしてたのに!!」
「でも無理よ」
一刀両断にすると、彼女たちは黙り込んだ。でも恨みがましい視線は変わらない。その卑屈さに少しうんざりする。と、その後ろに人影が見えた。
「…………」
顔を見たくなくて、あたしは視線を外した。ひょろりとした黒い影が、廊下に伸びている。
「鶴見君」
誰かが言った。
「テープ、渡してくれた?」
「それが……受け取ってくれないの」
鶴見があたしの方を見るのが分かった。
 沈黙。
 言いたいことは分かっているのに、誰も切り出さない。
 弱虫。
「キャンプファイヤー、無理よ」
「え……」
「先生たちの許可が下りなかったのよ」
言い切ると、鶴見があたしに同じようにはっきりした口調で言い返した。
「そんなはずないよ」
どうしてそんなに言い切るんだろう。あたしは苛々しながらもう一度繰り返した。
「でもそうなのよ」
何かを信じきったような鶴見の視線に吐き気がする。鶴見は探るように聞いた。
「頼んでみたの、本当に?」
鶴見の声が、妙に残酷に響いた。
 願いを叶えられないのはヒーローじゃない。
 それなら

 ヒーローじゃなきゃ、あたしは要らないんだろうか。

 気づいて、かっとした。あたしはカセットテープを鶴見に投げつけた。
「ふざけないでよ!!」
女の子たちが目を見開くのが見えた。
「貴方、あたしに何を期待してるの? 昔みたいなヒーローになって、何でも願いを叶えてくれるって、そんな馬鹿みたいに勝手な期待してたの?」
鶴見がこっちを見る。何かに気づいたように、はっとした顔をしていた。
「あんなの、嘘に決まってるじゃない……あたしはヒーローじゃない」
いじめられっこを助けるヒーロー。ただ、憧れてただけだ。その為に、利用しただけだ。本当は、それだけだ。
 鶴見はあたしをまっすぐ見た。迷ってるようでいて、それでいて一点だけ強い視線。
「そんなこと……ないよ。あの時の十和さんは本当の」
「ヒーローだったって? お生憎様、あたしは卑怯な人間よ。誰かを助ける自分に酔ってただけよ。ホントのヒーローならいつも貴方を助けてくれたでしょうよ、ピンチの時だけじゃなくて」
普段から苛められていた鶴見を、あたしは眺めてるだけだった。助けてあげるのはジャングルジムの傍でだけ。
「それでも……」
「どうして他の時に助けてあげなかったのか分かる? 面倒だったからよ」
周りのざわめきが聞こえる。すべて、責めるような声音の気がする。でも唇は止まらなかった。
 だからこそ、言葉は溢れた。
「全部あたしに押し付けないでよ! 何にもしないくせに、期待なんかしないで」
息が苦しかった。涙が出てきて、口の中に入って、それがあたしをより惨めにさせた。
「勝手にヒーロー扱いしないでよ。あたしは何にも出来ない!!」
鶴見の顔を見るのが怖かった。泣き叫んだあたしを取り巻いてた皆が遠ざかっていくのが分かった。一つ、二つ、足音は増えていく。しゃっくりをあげていると、鶴見が十和さん、と呼ぶのが聞こえた。あたしは首を振った。
 しゃがんだ鶴見が、何かをあたしの足元に置いた。カセットテープだった。視界が滲んでて、あたしには何て書いてあるのか分からなかった。
「ごめん」
鶴見がそう言うのが聞こえた。
 そうして鶴見の上靴が諦めたように離れていくのをあたしは見ていた。涙がぽたぽたカセットの上に落ちる。
 口を開きかけて、でも何も言えなかった。
 言えば良いことが分からない。
 行かないで、と言うのか
 ふざけるな、と言うのか
 見捨てないで、と言うのか
 鶴見君、と呼ぶことさえ。


「真純」
一人だけ側に残った桂が、あたしの顔を覗き込んだ。
「鶴見ね、直談判に行ったらしいよ」
何の、と桂は言わなかった。
「だからね、もうあとは音楽を流すだけだったの」
放送室の鍵を持ってたのはあたしだった。たったそれだけのことだったのだ。
 鶴見の顔。
 ごめん、と言った声。
「なりふり構うようなカッコ悪い奴だったけ、私の親友は?」
あたしは目を見開いた。ぽたり、とその反動で涙が落ちたけど、視界はクリアになる。顔を上げると、桂が廊下に落ちているカセットを拾い上げるのが見えた。
「行って来な」
 テープを受け取った手は、恥ずかしさに震えてたけど。
 まだ情けなくて、桂の顔をまともに見れなかったけど。
「例えプライド守れなくても、真純がカッコいいの、分かってるんだからね」
あたしは自分のやるべきことに、ようやく気づいた。



□■■□
 放送室の扱いは良く知らなかったけれど、職員室の放送装置を使ったことがあったから当てずっぽうで操作した。電源が点く。暗い室内に色が灯る。
 あたしはポケットからテープを取り出した。鶴見が持っていたカセット。何度か見たことのある鶴見の字で『キャンプファイヤー』と書いてあった。ゆっくりとテープをセットして、目を瞑って深呼吸をした。巻き戻してあるのを確認して再生する。
 あたしはそのまま急いで放送室を出た。ほんの少し、窓の外に目をやる。
 窓越しでも、ちゃんと流れて行くのが分かる。
 皆が輪を作る。
 動き出す。
 炎に照らされて、影が躍っていた。
 マイムマイム。


 あたしはそのまま鍵をかけて放送室を離れた。責任は全て被るつもりでポケットに鍵を入れた。
 暗い暗い学校の廊下は薄気味悪かったけど気にならなかった。かえって暗い方が都合が良い。一段一段階段を上って行く。誰も追ってこない。
 あたしなんて所詮、そんなものだ。
 屋上に出ると、全体が良く見渡せた。あたしがどんなに頑張っても動かせないほどの人たちが見える。そんな生徒たちが、輪になって笑う。
 あたしには無理だ。
「十和さん」
後ろから声がした。あたしは影に気づいていたので、さほど驚かなかった。
 ひょろっとした長身。

 ヒーロー。

「行かないの?」
「行かないわよ、あんな恥かいた後に行けるわけないでしょ」
ため息をついてわざとサバサバした声を出した。
 ダメだ。
「きっと十和さんが曲鳴らしたんだって、皆気づいてると思うよ」
「そんなこと関係ないわ」
あたしは手摺に持たれかかったまま、絶対に鶴見の方を見ようとしなかった。
 絶対に、ダメだ。
「十和さん」
 あたし
 見たら絶対に
 泣く。
「行こうよ」
「行けば、ヒーロー」
つっけんどんに言い返した。人の流れは止まらない。照らされては消えて行く。手と手が繋がれては、跡形もなく壊れて行く。それでも輪は続いて行く。
「ヒーローはあんたよ、鶴見。あたしは悪者、敗者なの」
遠くの光が滲む。情けない。多分、声は震えてるんだろう。
 目に炎は優しくないし、耳にマイムマイムは優しくない。
「敗者は舞台に上がれない、そうでしょ?」
 あたしに鶴見は優しくない。
「うん、そうだね」
鶴見が言った。やさしくない。
「でも、君は僕のヒーローだから」
やさしくない。
「おいてけないよ」
鶴見の声が、耳に甘く溶けて、あたしは彼に背を向けたまましゃがみ込んだ。涙が溢れて止まらなくなった。ひょろっとした影が、私を包んだ。
「もう、あの火も消えるよ」
温かい指先が、ちょっと戸惑ったようにあたしの頭を撫でた。
「見えないし、聞かないから」
骨ばった手が髪を梳く。あたしの涙を、その不器用な行動が晒して行く。
「ここにいていいかな、ヒーロー?」
光は弱まって行く。人の輪はそれでも回る、
 あたしは頷いた。
 そうして
「ここにいて、ヒーロー」
と、小さく呟いた。



【The hero is mine/closed】


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