今日は、死ぬのにとてもいい日だ――そんなことを言ったのは、どこの誰だったか。『仕事』帰りに見上げる月は、今日も変わらず冴えた冷たさの残る光を放っている。ちらちらと照らされた手に付き纏う赤を幻視して、軽く頭を振った。最後に自分の匂いを確かめる。洗い立ての体はどこか空々しいが、あの子供と会う時は、どうしてもそうしておきたかった。


「むー、今日も遅かったね、ゴゼンサマー?ってミサカはミサカは頬を膨らませてみたり」
「誰だよそいつァ」
すげなく返して、勝手知ったる彼女の部屋に上がる。彼女が寮の二人部屋を一人で使うようになって以来、時々ふらりと予告なしにこの部屋を尋ねるのが習慣になっていた。尤も、彼女はいつ行っても起きているので、こちらの予定などお見通しなのかもしれない。
 窓枠に腰掛けて靴を脱いでいる間に、彼女はベッドサイドのテーブルに急須と湯飲みを持ってくる。最近は随分と手際が良くなったようで、素足の裏が床を踏む頃には湯気を立てる茶が出来上がっていた。
「今日はジャスミン茶にしてみました、ってミサカはミサカは胸を張ってみたり」
「ほォ」
出された茶に口をつけると、渋みのない温かさが咥内に広がっていく。訂正、良くなったのは手際だけではないようだ――最初の頃は渋すぎて最後まで飲めなかったそれは、今では最後まで楽に飲み干せるようになっている。彼女が彼女のオリジナルの通っていた学校の寮に入ってもう2年ほど。思春期など一番成長する時期なのだから、少し見ないだけで大分違って見えるのは仕方のないことかもしれない。
「? なぁに?ってミサカはミサカはあなたに問い返してみたり」
いつの間にか見つめてしまっていた顔は、昔よりも高い位置にある。今はもう見下ろす、という感じではない。それでも自分にとって彼女はあの頃のままの『子供』で。
 ――つまり、変わってしまったのは自分だけ、だった。


 しばらく出された茶を黙って啜っていると、彼女が心配そうに顔を覗き込んできた。
「あなた、怪我してない?ってミサカはミサカは眉をめいっぱいに寄せて尋ねてみる」
「……要らねェ心配してンじゃねェよ」
一瞬、跳ね上がりかけた心臓を無理矢理に押さえつける。純粋に自分を心配してのことだろうその台詞が、耳に痛いだけになってしまったのはいつの頃からだったか。かつて闘っている自分のたった一つの理由だった彼女は、今日も変わらぬ平和の世界から話しかけてくる。その対岸からの言葉を、まるで自分に向けられたものでないかのように、心に響かないように、鈍感に流し始めたのはいつの頃からだったか。
「そっか、良かった……あなたは強いもんね、ってミサカはミサカは安心してみる」
本当に素直に喜ぶ彼女の顔を見ていられなくて黙ったまま片手で頭を撫でてやると、目を細めた彼女が嬉しそうに唇を綻ばせた。何となく顔を見られたくなくて目元を覆うようになってしまった手つきに、吐き気がしてくる。


 グループと呼ばれる学園都市の裏側の組織で日夜やっている『仕事』はただ目的もなくだらだらと続いていた。最初こそ釣り合いの取れていたメンバーは今では入れ替わり立ち代りになってしまい、最近では顔すらろくに覚えられないうちに消えてしまう者も居る。
 だらだらと、ただ時間を浪費していく日々。積み上がる金と、溜まっていく檻。かつて自分を縛っていたものはなくなったはずなのに、抜け出せないままずっと同じところに立ち尽くし続けている。

 ――いつまで、こんなことをやってるんです?
 かつて、一緒に『仕事』をしていたいけ好かない奴が言う。
 ――飽きないわね、あんたも。
 かつて、一緒に『仕事』をしていた中途半端な奴が言う。
 ――戻ってこれなくなるぞ。
 かつて、一緒に『仕事』をしていたしたり顔の奴が言う。

 何となく、分かっていた。この子供を幸せにしたところで、自分の罪が許されるわけではない。
 大勢の彼女たちを殺したその上に、新たに付け加わった真新しい感触。思えば、あの時偶然に人に手をかけてしまった瞬間――全てが壊れてしまったのだろう。



 見上げれば、極上の月。彼女と居る時はいつだってそうだ。極上の瞳が自分を見つめ、極上のキスが与えられる。儚くて綺麗で壊れそうな世界に、薄い薄いフィルターがかかる。こんな自分にも戻る場所があるのだと、錯覚しそうになる――もちろんそんなものは幻で、待っているのは容赦のない現実だけなのだが。

 考え事をしていると、ふと頬に柔らかい感触が触れた。振り向くと、傍らで小さな彼女が、少しはにかんで笑っていた。
「今ならお月様からでも見えないから、ってミサカはミサカは舌を出してみる」
被ったシーツから顔を出した子供は幸せの象徴のようで、月明かりの下どこまでも眩しかった。誘蛾灯のように引き寄せられて、いつものように彼女のシーツに潜り込む。
「あァ、見えねェな」
キスを交わす時、カーテンを引くのは、彼女をベッドの中へ隠すのは――月にすら、許されないような気がしたから。目の慣れる前の暗闇で、彼女が小さく呟いた。
「大好き、ってミサカはミサカはあなたに伝えてみる」
その言葉が誰にも聞こえないように、その笑顔が誰にも見えないように――ただ二人きりであるように、すっぽりと白の世界に体を包んで、彼女に静かなキスを落とした。


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時々ふらっと恋愛に逃げる一方さんは今のリニューアル一方さんだとありえなさそうですけど、
暗部で活動してたら偶然人を殺してしまったよ、的なルートだったらアリじゃないかなー、みたいな想像
そこはかとなくバッドエンドですね


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