「あんまり、大人を舐めちゃいかんよ?」
最初に感じたのは耳元の温度だった。次に、自分を抱き込む強い腕。気がつくと、唇が塞がれていた。
「んっ……」
いきなりのことでパニックになって、思わず息を止める。唇が触れている、たったそれだけのことなのに、どうして体がうまく反応しないんだろう。焦って、思考が空回りする。
(こういう時、どうすれば……)
 誰かに助けを求めたい――けれど、さっきまで誰もいなかった休みの日の塾に、一体誰が来るって言うんだろう? おまけにどんどん息が苦しくなっている。
「……っ、……!!」
強く手で叩くと、唐突に息継ぎの瞬間が訪れた。反射で慌てて空気を吸い込む。そうすると、舌が途端に苦味を認識した。私を抱きこんでいる腕はまだ解かれないままで、思ったより皺のないシャツから、タバコの匂いがした。体の近さに気づいてもがくと、少しだけ鼻で笑われた。
「処女みてぇ」
囁くような声で、そう言い当てる。思わず顔を上げて睨み付けようとすると、またさっきみたいな至近距離。目を閉じる暇もなくまた触れる唇。差し出された舌を噛んでやろうとする。けれど、それを予想したかのようにするり、と逃げられた。
「案外甘いな」
そう、苦笑と一緒に返されたのに――思わず目を惹かれてしまったのは、気の迷いだと信じたい。



***
 現社と言ったら、内容が眠い上に適当にやったら何とかなってしまうものだから、優先順位が低くても仕方がないと思う。
「ねーねー、葎(りつ)」
小声で話しかけられのは授業中だからだ。私は少し顔を上げると、周りを見回した。皆、前を向いて、ちゃんと授業を聞いている。いつも通りの授業風景だ。私は隙を見て、こそこそと回ってきた手紙を黙って前に回す。後ろの席に座っている恵(めぐみ)が片手で謝ってきた。さっきメールをしていてケータイを取り上げられたと言うのに、手紙まで使うとは……そこまでこないだの失恋がショックだったんだろうか。皆であれだけ慰めたのに、それでも足りなかったんだろうか。

『ほんとにすごく辛くて……』

 そう言って目を潤ませていた恵は、確かに悲しそうではあった。教室だから流石に泣きはしなかったものの、いつも割と騒がしい彼女からすると、かなり落ち込んでいた。それが珍しいのか、遠巻きにちらちら見る人も一人や二人じゃなかった。どうしたのか、と思って聞き出してみたら、失恋。詳しく聞くと、こないだの合コンでちょっと話しただけの男が相手らしい。別にそこまで熱を上げていたようには見えなかったのに、実際は告白してセックスして振られたそうだ。

『本気じゃなかったのかなぁ……』

 今頃気づいたか、と思いつつ、ハンカチを差し出すと、ホント葎は大人だよね、と泣き笑いを返された。笑えるんなら、まだ良いと思う。本当に辛かったら、塾に来る気力なんてないはずだ。惚れっぽい性格の恵は、よくこうやって肩を落として泣いて、けれど次の週には新しく夢中になれる男をまた見つけられる。それを私は――器用だな、と思う。


「……の、高野!」
反応のない私にかかる声。顔を上げると、やる気のなさそうな三白眼がこっちを見ていた。
 白衣をひっかけただけで、それ以外どこも教師に見える要素はない。ぼさぼさで手入れもしてなさそうな黒髪。高くも低くもない背。いつもそれなりの服を着ているのに、着こなしがだらしなかったり姿勢が悪かったりするせいで、ちっとも格好良く見えない。申し訳程度に結ばれたネクタイは、裏返ってしまっている。
 唐木春秋(カラキハルアキ)、現代社会担当で――私のファーストキスを奪った男だ。
「読め、って言うの、聞こえてたか? たまにしか言わないんだから、ぼうっとすんなよ」
表情はいつも通りの、読めない『先生』の顔。私は咄嗟にどう反応して良いか迷う。目を合わせたくないのは確かだけれど、それは向こうも同じはずだ――何せ、こないだのことは、私だって唐木だって、教師と生徒の一線を越えていた、という自覚がある。けれど、唐木は相変わらず、あの日見せた余裕を崩すことがない。

 あの時、次の瞬間には、あんな顔をしてたくせに。

 思い切り睨み付けても、唐木はどこ吹く風で手元のテキストを、とんとん、と叩く。喋ってる内容は上から目線で結構横柄なのに、独特の軽い言い方がそれを感じさせない――そんなところも、いつもの『先生』の唐木だ。
(……それなら、私だって気にしない。あんなの、事故――だ)
 立ち上がって読み始めても、相変わらずのぼうっとした顔。この人、私たち以上にやる気がないんじゃないかしら、とちらりと思う。
 私のファーストキスの相手は、好きでもない塾の先生だった。



***
 史郎に好きな女がいるということを知ったのは、去年のバレンタインデーだった。

「珍しいね、史郎が残ってるの」
「まぁ」
史郎がこういう曖昧な言い方をするのは珍しい。いつもはどこか冷めた感じで皮肉るように返してくるのに。
 今はもう21時も過ぎていて、どのクラスも授業は粗方終わっていた。残っているのは先生に質問していた、と言うような少数派だ。史郎は頭が良いので質問する必要がないし、そもそも木曜日はバイトを入れていて、塾には来ないはずだった。実際、いつも通り授業は欠席していたと思う。こんな皆帰ってしまった廊下で一人ぽつんと立っているのが不思議だった。
 史郎とは幼馴染だったけど、中学に上がった頃から何となく疎遠になっていた。眼鏡をかけて少し大人びた話し方をし始めた史郎のことが何となく怖くなり、それと同時に周りが史郎のことを『格好良い』と注目始めた辺りが、分岐点だったのだろう。実際、史郎は高校内では人気があるらしい。いかにも優等生然、としているのが、王子様みたいに見えるそうだ。多分、この塾で一緒にならなかったら、再び喋ることはなかったに違いない。でも、最初は久しぶり、の挨拶から始まって、今ではそんなに勉強してない癖に成績の良い史郎に、時々勉強を教えてもらっているくらいには、幼馴染の仲は回復していた。
(……チャンス、なのかな)
 用意したチョコレートは、本命なんだか義理なんだか良く分からない仕様のもので、それが自分の中途半端な勇気を示しているようで、今朝までずっと渡すかどうか迷っていた。取り合えず鞄に入れて持ってきたものの、昼になり、夕方になり、渡す機会が減るにつれて、自分で食べようかな、という気になっていたところだった。けれど、こうやって偶然会ったのなら――これは何かのいたずらが、渡せ、と言ってるのかもしれない。
 私は決心して、鞄の留め金に手をかけた。
「あのさ……」
そう私が言い出したのと、史郎が視線を逸らしたのが同時だった。視線を追って振り返ると、教員控え室から、数人の先生が出てくるところだった。英語のやどいんに、数学のクルミ先生、現社の唐木。うちの塾は生徒の数も少ないだけあって全体的に小規模で、教師も10人弱しかいない。どうやらその教師陣の中でも若いメンバーで残っていたらしい。いつもよりも多少気安い様子で、三人は話していた。
「……史郎?」
 三人の方を見たまま動かない史郎に私は声を掛ける。けれど、史郎は返事をしなかった。見上げた顔を見ると、どうこう言えなくなってしまって、私は傍らでぼうっと先生たちの様子を見ているしかなかった。そのうち三人は話し終わって、唐木だけが手を挙げて二人から離れる。駅の方から帰るのだろうか、唐木は表玄関に繋がる階段で立ち話をしていた私たちの横を通り過ぎていった。
「悪い、また今度」
言うが早いか、史郎が少し早足で残りの二人を追いかけていく。
(え……?)
それは、さっき私が聞いた訝しげな声に対する答えだったのだろうか。そんなことを確かめる間もなかった。もちろん呼び止める暇もない。鞄の中に入れた手を出すタイミングは、完全に失われてしまった。
 私はただ呆然と――その背を見送ることしか出来なかった。
(…………何これ)
完全に姿が見えなくなるまで、ほんの一瞬だった。気がつくと、私は一人取り残されている。廊下にはまだ電気が煌々とついているけれど、一人ぽつんと残された私を包む雰囲気は、全然明るくなかった。
 手の中の包装紙に皺が寄っている。自分では気づかなかったけど、緊張していたらしい。私は持っていた包みごと手を引っ張り出した。もう、隠す必要なんかなくなってしまったのだから。
(……あーあ、ピンク色だ……)
取り出したパッケージは柔らかいピンク色だったはずなのに、なぜか視界をうんと突き刺した。結構、買う時に緊張したのに。渡すのなんか、すぐ出来たはずなのに。
 こんなはずじゃなかった。幼馴染だから、普段世話になってるから、何となく、そんな何種類もの理由を用意して、その場の雰囲気で選んで、さらっと渡すつもりだったのだ。なのに――
「何、これ……」
もう、要らないんだ……要らなくなっちゃったんだ。
 私は唇をかみ締めて、視線を裏口に続く階段の方へ向ける。さっき史郎が走っていった方だ。

 あんな顔、見たことがなかった。
 史郎が、あんな――焦った顔するなんて。

「……あーぁ」
私はマフラーをしっかりと巻きなおして表玄関に向かった。要らなくなったチョコレートをコートのポケットに突っ込もうとしたけれど、微妙に大きくて入らない。
(こんな大きいの買っちゃってたんだ……)
そんなことに気づいて、私は目頭が熱くなるのを感じた。
「失恋って、こんな感じなのかぁ……」
口に出した途端、ぽろりと涙が落ちた。

 ――それが、私の7年越しの恋が終わった瞬間だった。



***
 ため息をつきながら椅子を一つずつ戻していく。いつもながら貧乏くじを引いてしまっている、と思う。しかも進んで、だ。

 私のことを皆に聞いてまわれば十中八九こういう言葉が返ってくるだろう――曰く、『頼りになる』『一緒にいて安心』『落ち着いてる』、そして『大人』。実際は幼馴染を思い続けて振られてしまったのに、絶対年上と付き合ってそう、なんて言われたりする。単にあまり感情が表に出ないだけなんだけど、それを大人っぽいと勘違いされて今に至った、そのレッテルからはもう逃げ出せなくて、私は人に譲ったりだとか、こういう後始末だとか、とにかくいつも何処か人より損をする立場になっていた。

「お前、損だね」
 そう言う声に振り返ると、唐木が気安く笑いかけてきた。何なんだ、と思ったので、聞こえないふりをして作業を続ける。
 唐木とはそんなに面識がなかった。私は英数重視のコースで、現社なんて夏休みの集中コースでしか取ったことがない。おまけに、やどいんやクルミ先生と違って、唐木はあまり目立つ感じでもなかったので、そもそもあんまり接点がなかったのだ。
 さっきよりも慎重に、音を立てないように作業を続ける。別に注意されるようなことをしているつもりはないのに、唐木は黙ったままこっちを見ていた。
「…………何か用ですか?」
しばらく無視し続けても立ち去らないようなので、私は諦めて聞いた。
「いや、真面目だと思ってさ」
「別に」
言い方が先生に対してするには少しぶっきらぼうになってしまった気がして、私はもごもごと、そんなことありません、と続けた。ちゃんと聞こえたかは分からないけれども。
「ふーん」
自分から話しかけてきた癖に、どこか面倒そうに唐木は返してくる。
 電気はついてるけど、外はもう暗くなっていて、今がもう夜なんだ、と思わせた。時計の秒針の進む音が、やけにはっきりと聞こえてくる――それくらい静かだってことは、もう隣の教室には誰も残っていないんだろう。
 唐木は何をするでもなく、ぼうっと教室の扉にもたれかかっていた。別に私のことを注視してるわけでもないのに、どこか落ち着かなくて、私はいつもの倍くらいの速度で片づけを終える。
「お前さ、いつもこれやってんね」
「え?」
「片付け」
ぺたぺたとやけに大きな音でスリッパを鳴らしながら移動した唐木は、とんとんと机を叩く。見られていたのが妙に恥ずかしくて、私は慌てて否定した。
「……別に、そんなことないです」
「あ、そ」
聞いてきたのと同じくらいにあっさりと、唐木は話を打ち切る。そして、それきり何も言い出さない。椅子を綺麗に整え終わってしまえば、もうどことなく気まずい沈黙に耐え切れなかった。
「……私、帰ります」
「んー、お疲れ」
言いながら、唐木は何かをこっちに投げてきた。慌ててキャッチする。手を開けて見てみると、ハチミツののど飴だった。
「やるよ」
意味がわからないけれど、付き返すのもどうかと思ったので、私はありがとうございます、と答える。
「気をつけてな」
最後に、取ってつけたように先生らしい一言を放って、唐木は手を振った。
 そんな風にして、私と唐木の接触が始まった。



***
 差し出されたコップには、明らかにアルコールの入った飲み物が入っていた。
「ほーらぁ、葎ぅ〜」
恵は既に酔っているようで、容赦なく私にコップを押し付けてくる。手のひらで受けたそれはとても冷たかった。諦めて受け取ってから、私はテーブルの空いているところにコップを置いておく。こうしておいたら、誰かがそのうち飲むだろう。
 居酒屋の個室座敷には、男女が合わせて8人ほど――所謂合コン、というやつだった。最初はお決まり(らしい)の自己紹介やら何やらで全員が代わる代わる喋っていたけれど、気がつけば3、3、2のグループに別れている。週末なだけあって、店は全体的にがやがやと騒がしい。それに負けず劣らず、このテーブルも騒がしかった。
「りっちゃん飲んでる〜?」
肩に突然手をかけられてびっくりする。振り返ると、――えぇと、多分エンドウさん、だった――エンドウさんがビールのグラスを片手に笑っていた。結構細身に見えるのに、さっきからぐいぐいビールをあけ続けている。それなりに酔っているようで、顔が赤かった。かかる息も少しお酒臭い。ほぼ初対面なのに、この近さはどうかと思う。
「え、えぇ……まぁ」
曖昧にお茶を濁しながら、私は少し逃げた。距離の問題と、あとはさっきの自己紹介のとき、恵がエンドウさんのこと目で追っていたのに気づいていたからだ。あれは、絶対一番エンドウさんを気に入っている。
「恵は飲んでる?」
「うー、うぅん」
なので話を振ってみたものの、明らかに呂律の回っていない恵は、頷きながらも私にしな垂れかかってきた。対して広くない座敷なのに、恵はゆうに3人分くらいの座布団を占領する勢いで、ぐだーっと下半身を投げ出していた。今日の恵のスカートはかなり短いので、下手をすると下着が丸見えになってしまう。私はさり気なく皺になっている恵のスカートをあるべき方向に伸ばした。
「……大丈夫?」
「うぅーん、ひぇいき」
ひぇいき、って何だそれは。
 私はケータイを取り出して時刻を確認した。22時前、そろそろ帰らないと不味い時間だった。確か、この座敷も21時半で引き上げなければならなかったはずだ。
  「あー、時間だねぇ」
エンドウさんがひょい、と私の手元を覗き込んで言った。それから徐に立ち上がると、そろそろお開きね、と部屋全体に声をかける。そう言えば最初に今日の幹事、とエンドウさんが言われていたのを思い出した。
「ごめん、これだけ飲んでもらえる?」
さっき恵から差し出されてテーブルにそのままにしていたコップをエンドウさんが私に手渡してくる。飲み残しダメなんだよね、と付け加えられたので、仕方なしに私は飲んだ。
(……少し苦い)
今日初めて飲んだけれど、どうやらアルコールの味はあまり好きになれなさそうだった。何回かに分けて頑張って飲む。
「めぐちゃん、大丈夫?」
まだ寝転んだ状態のままの恵に、男性陣の一人――確かコグレさん――が声をかけた。はぁい、と答えた恵の様子は、誰がどう見ても全然大丈夫そうではない。コグレさんは、恵と一生懸命コミュニケーションをとろうとしているのに、恵はどこ吹く風で寝ぼけた声を返している。
「ありがとう」
飲みきったところで、エンドウさんが私からグラスを取り上げて、店員さんに差し出した。片付け始められているようなので、どうやら結構急いで出なければいけないようだ。
「恵、めぐみ」
私は傍らの恵を起こそうとする。けれど、肩を揺らしてみても、恵が目を覚ます様子はない。
「俺、送っていこうか」
家近くなんだ、と佐藤君が言う。佐藤君は塾のクラスメートで、恵と今回の合コンの仲介役みたいなことをしていた。少し迷った顔をしていると、それを見抜かれたのか、じゃあタクシーまで一緒に送る?、と聞かれる。
「ん……ごめんね」
クラスメートを疑うような真似をしてしまったのを謝ると、佐藤君は、良いよ、と笑う。あまり話したことがない人だったけど、その笑顔は十分信頼に当たる気がした。佐藤君の知り合いだと言う残りの大学生の人たちより、随分感覚が近いようで、少し安心する。恵の靴を履かせるのを手伝うと、面倒見が良いね、と少し笑われた。
「高野さんは大丈夫?」
聞かれて、大丈夫、と返した。この店から駅まではずっと人通りの多い明るい道だし、10分もかからない。家の最寄り駅から家まではそこそこ距離があるので、遅くなる時はそもそも迎えに来てもらっていた。
 そのまま佐藤君は、恵を負ぶって、先に行くね、と言って、出口の方に歩いていく。私も続こうと立ち上がる、と少し視界がぐらりと揺れた。
「途中まで送るよ」
背後からエンドウさんがそう言って、私の鞄を持つ。ちょっと困るな、と思いつつも、気をつかってるのかな、とも思ったので、私はありがとうございます、とお礼を言った。流石に別れ道で返してもらえない、ということはないだろう。
 残りのメンバーは大体地上の表通りに出ているらしい。地下にあるお店だったので、私は記憶を頼りに階段の方に歩――こうとして、今度はふらついた。
(……あれ、な、んだろ?)
体が少しふわふわする感じだった。
「りっちゃん、大丈夫?」
エンドウさんが聞いてくる。また肩を掴まれたけれど、抵抗するのが遅れてしまった。そのまま歩調を合わされて階段を一緒に登る。その階段が変に近づいたり離れたりするように見えた。視界を揺らさないようになるべくゆっくりと登ったけれど、階段のてっぺんに着いた時に、また一度ふらついた。思わず、お店の壁に手をつく。
「あ、れ……もしかして、わ、たし、よってます……?」
やっとそのことに思い当たってエンドウさんに聞くと、そうだねぇ、とのんびり返された。飲んだのは最後の一杯だけなのに……そんなに強いお酒だったのだろうか。
「あー……皆、先行っちゃったな」
がらり、と扉を開けたエンドウさんが言う。確かに地上に出たけれど、店の前を見渡してみてももう誰もいなかった。視線を少し遠くへやると、駅の方に向かっている人ごみの中に、一緒にいたメンバーが見えた気がした。追いかけなきゃ、と私は思う。
「じゃ、行こうか」
けれど、エンドウさんは逆方向に歩き出した。
(え……?)
あれ、そっちに駅あったっけ?と、回らない頭で考える。地下鉄の駅か何か、あったのだろうか。私はJRで帰るから、方向が違うんだし、送ってもらうのを断らないといけない。
「あ、あの……」
「んー? しんどい? んじゃ休もうか」
エンドウさんは心なしか早足になって、私を引っ張る。休む、って言うのに、どうして急ぐんですか――そう言おうと思ったけれど、うまく言葉が出てこない。ふらついた状態の私は、半ば引きずられるように歩いた。
 辺りは段々人通りが減ってきて、街灯の間隔も心なしか広くなっている気がする。
「……あ、」
というか、何か変だ。それに気づいて、私が立ち止まろうとしたのと、エンドウさんが呼び止められたのが同時だった。
「何してんの?」
エンドウさんの肩を掴んで、誰かが行く道を塞いでいた。
「そいつ、どこに連れてくつもり?」
妙に、聞き覚えのある声だった。少し重い頭を上げて、視線をそちらに向けると、見覚えのある顔――唐木だった。突然乱入してきた唐木に、エンドウさんは面食らった様子だった。
「どこって……あんた誰?」
「そっちにはお下品なネオンのお店しかないんですけどね?」
言いよどんだ後に、勢いをつけて聞き返したエンドウさんの言葉を無視して、畳み掛けるように唐木が言う。私は、唐木が顎をしゃくった方に目を向けた。
「!?」
びっくりして、エンドウさんを見上げる。さっきまで気づかなかったけれど、道の奥の方には『HOTEL』の文字が踊っていた。
「……いや、でも、他人がどこに行こうとあんたには関係ないですよ」
エンドウさんが同意を求めるように私の方を見る。けれど、私は理解が追いついていなくて、何も言えずにいた。
「他人じゃないし。うちの妹に何か用?」
唐木が言う。口調は静かだったけれど、視線はこれ以上なく重くて、酔った頭でもはっとするくらいに怖い顔だった。妹、という嘘にも反応できないくらいに。
「……あ、えぇと……すいません」
雰囲気に呑まれたのか、エンドウさんが私に鞄を返してきた。半ば押し付けるように渡されたそれを受け取ると、エンドウさんは軽い調子で、ごめん、とだけ言う。そして、そのまま後ずさるように――それから背を向けてからは全力で、エンドウさんは駅の方に走っていった。
 その後姿が大分小さくなった頃、唐木が私の方を振り向いて言った。
「盗られたものは?」
「……鞄は、特にいじられてないです」
中身を確認したけれど、特に触られた様子はなかった。酔った頭だったからあまり確かだとは言えないけれど、エンドウさんは、私の鞄を開けるような素振りは見せなかったように思う。そのことを唐木に伝えると、唐木は、ふぅん、と聞いてるのか聞いていないのか良く分からない調子で返してきた。
「取り合えず、制裁」
ぴん、と唐木が私の額にデコピンをしてくる。思ったより痛かったのと、まだ酔っている状態だったので、私は少しふらついてしまった。
「まぁ……どういう状態だったか分かってるだろうから言わないけど、危なかったんだからな?」
自覚しとけよ、と言う唐木の言葉に、私は頷くしかなかった。思い出すと、怖くなって、私はその場を離れるように駅の方に歩き出した。早く見慣れたところに出たかったのだ。唐木はそんな私の様子を見て、手を差し出してくれた。大人しくつかまると、エンドウさんと違って、ゆっくりとした歩調で、私の手を引く。酔った状態でも随分歩きやすかった。時々後ろや前からやってきる人からも、唐木はさり気なく私を誘導してぶつからないようにしてくれていた。
「……ありがとう、ございます」
やっと、お礼を言うことに思い当たって、私は唐木に言った。それは、私を助けてくれたことだけじゃなくて、こうやって手を引いてくれていることとか、駅まで送ってくれようとしていることとか、そういったこと全てに対して思っていた。唐木は少し驚いた顔をした後、意外、とだけ返してくる。
「……い、がい?」
唐木の言ってる意味が分からなかったので、聞き返すと、唐木は、あー、と言葉を濁した後に言った。
「……まぁ、自暴自棄になってるのかと思ってたから。邪魔すんな、くらい言われるかと」
「じぼうじき……」
言われてから考えて、はっとした。見上げると、唐木はバツの悪そうな顔をして、前を向いて歩いている。
 そう言えば、唐木はあのバレンタインの日、ちょうど通りがかっていたのだ――あの場所に。
(…………あぁ、)
 だとしたら、私があぁやって立ち尽くしていたことも、泣きそうになっていたことも、もしかしたら知っていたのかもしれない。私が、史郎のことを好きだったことも、きっと――
「…………さい、あく」
その呟きは、唐木に聞こえただろうか。
 私は恥ずかしくて堪らなかった。こうやって、慣れない合コンに参加したりして、必死に忘れようとしてるその原因を、唐木は知っているのだ。こんなに情けない私のことを、私ですら忘れようとしていたことを、唐木は――
「…………う、……」
どうしようもなくて、私は唐木に手を引かれたまま、泣き出してしまった。唐木が一番気まずいであろうことが分かっていたのに、涙は止まらなかった。抑えようとすれば抑えようとするほど止まらなくなって、しまいには鼻までずるずるいわせてしまった。
 その間、唐木は一度も私の方を振り返らなかった。駅前に着いても泣き止まなかった私の傍に立って、唐木はずっと視線を逸らしていた。ここまで連れてきたら、放っておいても大丈夫なはずなのに、唐木は手を繋いだまま、ただ私が泣き止むのを待ってくれていた。
「まぁ……どうやって、忘れようとするのかはお前の勝手だけどさ」
少し呼吸が落ち着いたところで、唐木は繋いでいない方の手をポケットに突っ込んで、飴を一つ取り出して、私の手のひらに乗せる。動かす気力もなかった私の指を、唐木はゆっくりと包み込むようにして折らせた。
「無理はすんな」
その時初めて、唐木は真っ直ぐに私に視線を合わせた。



***
 それから、時々唐木のことが目に入るようになった。
 多くの生徒からは敬遠されてるものの、ごく僅かな生徒には人気があるらしい。恵もその一人のようで、時々唐木に話しかけてるのを目にした。

 塾の休み時間は短いので、教室の席に座ったまま喋るのが自然になっている。たった15分の休みでも、やっぱり開放感はあるものだから、周りもざわざわと騒がしい。
「唐木ってどんな感じ?」
私は恵に聞く。恵はオレンジジュースのパックを飲みながら答えた。
「カラキせんせ? カッコイイよぉ」
その喋り方で、分かってしまった。今度は唐木らしい。恵は気に入った男のことを話す時、少し舌足らずになるのだ。 「なになに、葎もカラキせんせに興味あるの?」
身を乗り出してくる恵から、私は目を逸らした。
「……別に、」
否、それは嘘だ。興味はないこともない。少なくとも、何の接点もない生徒に急に声を掛けてくるような……助けてくれるような教師なのか知りたいのは確かだった。
「カラキせんせはね、コーヒー党。タバコはマルボロだよぉ」
……そういうことが聞きたいんじゃないんだけど。でもそう言えば、時々控え室を訪ねた時に目にした唐木の机の上の灰皿は、タバコでいっぱいになっていた気がする。
「……何で、唐木好きになったの?」
聞くと、恵は目を丸くした後、え、ちょっと、バレバレ?、と聞いてきた。少なくとも、ライバル(がいるとしたら)にはバレバレだと思う。恵は好きになった男には、容赦なくべたべたしたがるからだ。
「えーっとね、現社の授業中に寝てたらね、授業の後で呼ばれてね。怒られるー、って思ったら、寝不足だったら寝ても良いけど、ばれないようにしろよ、って。それで、缶コーヒーくれたの」
「…………」
「それでぇ、ヤサシイな、って」
最後のコーヒーは余計かもしれないけど、それって全然優しいわけでも何でもない気がする。もちろん、唐木に助けてもらったことはよく覚えているけれど、あの日の唐木と普段の唐木は全然違う印象だ。普段の唐木の態度からすると、単にやる気がないだけじゃないだろうか、と思えてしまう。
 ポケットの中に入りっぱなしになっていたのど飴を恵にあげようか、と迷う。けれど止めておくことにした。そもそも私がのど飴を貰っている、と聞いたら、あんまり気分が良くないだろうから。
「はいはーい、席つくー!!」
いつの間にか授業の始まる時間だったらしく、クルミ先生が教室に入ってくる。私はポケットに入れた手を出して、テキストを机から取り出した。



***
 センター対策で現代社会を取り始めてから、唐木と話す機会が増えた。これまで全くなかった接点が、授業中に放課後、二つも増えたのだから、当たり前だけれど。

 改めて受けてみると、唐木の授業はそこまで退屈でもなかった。
「センセー、そこどうなるの?」
「あー、つまりだな、ここは……」
そもそも説明中にちゃんと質問が入る授業は珍しいんじゃないだろうか。大抵の授業では、私たち生徒は黙ったまま黒板の内容を写すだけだ。質問で当てられたら答えるけれど、それ以外の私語なんて滅多に飛ばない。
 けれど、唐木の授業は違った。唐木は板書をほとんどしないし、テキストをそのまま読むような真似も、読ませるような真似も滅多にしない。ノートはとても取りにくいけれど、日常生活に絡めて話すことが多いので、説明自体は分かりやすかった。
「……ま、つまり、このおっさんは夢見がちなわけだ」
  ちょっと身も蓋もないけれど。

「あー、それ良いよ」
いつも通り、授業が終わってから椅子を直そうとすると、唐木が言う。
「でも、」
「そんなん俺らがやるって。受験生は勉強が仕事」
「……全く手が動いてませんけど」
切り返すと、う、と唐木が詰った。

 唐木の授業は週2回で、そのうち、火曜日の授業は21時までの最終コマにやっている。私は最終コマの授業の後は椅子を片付けるようにしていたので、自然と唐木と週に一度は話すようになっていた。
 授業が終わると大抵の子はさっさと帰ってしまう。ご多分に漏れず、私も最初はそうだった。けれど、残って質問していた時、私を送り出した後に、先生たちが教室の椅子を片付けているのに気づいたのだ。教室数は結構あるし、何より授業が終わった後に書くカルテがめんどくさい、とやどいんが言ってたこともあって、それなら代わりが出来る方を、と手伝ったのが始まりだった。

「…………だな」
「え?」
「いや、こっちの話」
唐木は私が直し始めたのと逆の隅の椅子から片付け始める。なので、小さな声で言った言葉は聞こえなかった。
「真ん中までで良いよ」
私がちょうど教室の真ん中の列の椅子を直し始めたあたりで、唐木が言った。唐木よりも私の方が先に片付け始めていたので、自然、このまま直していたら私の方が多くの椅子を担当することになるはずだった。どうしようか迷っているうちに、唐木が真ん中の列に取り掛かり始めたので、私はそのまま手を休める。ちょうど教室のど真ん中の椅子の辺りで唐木が作業するのを眺めることになった。
「お疲れさん」
そう言って、私のいる机のところまで来ると、唐木は飴を私に差し出してきた。今度は抹茶味だった。
「違うんですね」
「ん?」
「こないだのと、飴の味」
「あー、切らしちゃったからね。ハチミツのが良かった?」
いえ、と返して、私は飴の包み紙を開けた。この時期の教室は暖房をしっかりかけているので、少し喉をやられていた。前と違って今回は、何故、と訝しがる前に、素直にいただいた。
「飴、常備してるんですか?」
聞くと、唐木は、まぁね、と返して、白衣のポケットに手を突っ込む。つかみ出した飴を机に並べると、何種類もあった。私が食べてる抹茶味から、しょうが、オレンジ、ビタミンCなんていうのもあった。
「タバコ吸ってるのに、飴も舐めるんですね」
「ま、要するに口寂しいんだよね。俺」
唐木は机に広げた飴のうち、サイダー飴を開けて口に放り込む。
 その唇を、本当に何となく――目で追ってしまった。



***
 先生、というのは因果な商売だと思う。

「せんせー、ここ、ここぉ」
甘えるように話してるのは、多分私立理系クラスの人なんだろう。あまり見かけたことのない顔の子だった。丁寧に毎日ケアしてるであろう巻き髪が、唐木の机に置いた教科書に垂れている。距離は不自然、とは言えないものの、少し気になる程度には近かった。
「髪かかってる、ちょっとどけて」
言いながら、頭をかいて唐木は教科書に目を落とす。頬杖をつきながらも、真剣な目で文章を追っているのは、多分自分の授業のどこが分かりにくかったのか考えているからだろう。普段の抜けたような三白眼が鋭くなる。
(……分かりやすいのに)
多分、あの子は授業自体に集中してないのだろう。唐木の教え方は分かりやすい上に簡潔だから、そんなに疑問点は出てこない。尤も、自分で興味があって更に深く勉強してるなら別だけれども。
「あー、……だからだな、ウェーバーはキリスト教の……」
唐木が説明を始めるのが聞こえた。一通り教科書を指さしながら言う唐木に、女の子はふんふん、と頷いている。本当に分かってるのだろうか。多分、分かってないだろう。その証拠に、さっきから彼女は唐木の指先の文字じゃなくて、唐木の顔ばっかり目で追っている。私はちょっと唐木が可哀想になってしまった。
 そんな私の視線が、伝わったのだろうか――ふと顔を上げた唐木と目が合ってしまって、私はぱっと顔を背けた。そうして気づいた。私と質問している子以外は教室に誰もいなくなっている。時計を見てみると、そろそろ次の授業が始まってしまう時間だった。
(あの子は、次の時間、授業がないのかな)
テキストを揃えながら、私は席を立つ。次の時間の教室は二つ隣だから、そんなに急がなくても大丈夫だった。教壇の傍を通りかかると、不必要なくらいに間延びした受け答えをしている女の子の声が聞こえる。
「えー、でもぉ、」
甘えるような声。ふわり、と甘い匂いが鼻をくすぐった。綺麗に塗られた爪のマニキュアが眩しくて、私は目を逸らす。ただ降ろしてるだけの髪と深爪。おまけに、中途半端に大人びた態度――そんなの、気に入られないに決まってると、分かってる。本当はどんな男の人だって、ちゃんと『女』してる子が良いに決まってると、知っていた。

 けれど――
(……え?)
 唐木はほんの一瞬、とても冷めた目をして、彼女を見ていた。




***
「高野ー」
「……はい、」
また一呼吸空けた返事になってしまった。何となく唐木と顔を合わせにくくて、私はのろのろと立ち上がる。私の席は教室の真ん中辺りなので、唐木のいる教壇まで少しだけ時間が掛かる。歩いているその間に、唐木の方を見ないようにして気持ちを落ち着けた。
「ん、頑張ってるな」
そう言って向けられた、唐木にしては珍しい笑顔を、私は素直に受け取れなかった。返された小テストを受け取ると、私はほっとして席に戻る。
 あの時、唐木が見せた冷めた目が、私の中でしこりになって残っていた。彼女が唐木のあの目に気づいたとは思えない。ということは、唐木が私をあの目で見ていても、私は全く気づかないかもしれないのだ。
「松浦ー」
呼ばれた恵が返事をして唐木のところに駆け寄っていく。あぁいう態度だと、何だか周りにもばれていないか心配になってしまう。
(……唐木は、)
ぐるぐると考え続けると、何だか出口のない迷路に入ったようだ。
「んじゃ、来週は民主主義なー」
いつの間にか授業は終わっていて、私は慌てて黒板に目をやる。けれど、相変わらず唐木の授業では板書は何の役にも立たない。
(……『代表制』、『19世紀』、……ダメだ、これだけじゃ全然分からない)
私は諦めて書き留めるのをやめた。恵にさっきの授業のノートを借りるしかないだろう。ここのところ、現社のノートは空白だらけで、今の自分の状態が良く分かる。
(……集中、)
「集中してなかっただろ、お前」
自分の心の中を覗いたかのような声にびっくりして振り返ると、唐木が私の後ろに立っていた。
「……すみません」
謝ると、唐木は少し口ごもった。
「あー……いや、謝ってほしいわけじゃなくてさ、何か、」
元気ないの、と唐木は聞いてくる。私が顔を上げると、唐木は口元を手で押さえながら、らしくない様子でもごもごと言う。
「最近ずっとそんな感じだから、ちょっと……まぁ、気になる」
顔は逸らされていたけれど、それは助けてくれた時に唐木が見せた表情と同じだった。それが、なぜか切なく感じられて、気づかないうちに唇から言葉が滑り落ちていた。
「ホントは、生徒が嫌いなんですか……?」
「……え、何? 何で?」
唐木は少し沈黙した後、自分のことを言われてる、ということに思い当たったらしく、面食らったような顔で返してきた。
「だって、こないだ……、」
上手く言葉に出来なくてつっかえつっかえ話すと、唐木は思い当たる節があったようで、あぁ、とため息をつく。それは少し長めのため息で、私が黙ったまま見つめ続けていると、唐木は思いなおしたように口を開いた。
「あれはどっちかって言うと、俺の機嫌が良くなかったの」
悪かったな、とそのまま唐木は謝ってきた。白衣のポケットに入れたままの手を忙しなく動かしているのが分かった。飴でも弄っているのかな、と思う。それくらいには――落ち着かない話題なのだろう、唐木にとって。
「悪かった。バイトとは言え、教師としてやっちゃいかんことだった」
それは、酷く真剣な表情で、私は思わず、こくり、と頷いてしまった。
 それを見届けて、唐木は原因が分かったからか、もう一度謝ってから私に背を向ける。そうして1、2歩離れてから私の方を振り返った。少し躊躇うように頭をかいた後、唐木は、言い訳だけど、と前置きしてから続けた。
「……あの場にいたのがお前だったら、多分あんなんにならなかったよ。お前はちゃんと授業聞いてんだろ。あぁ言うの、お前らが思ってる以上に分かるもんなんだぜ?」
唐木は言う。
「……そう、なんですか」
「うん。だから松浦にノート借りるの止めとけ。あいつ、あんまり頭に入ってそうじゃないから」
少し笑ったのは、冗談のつもりだったのだろうか。私が何も言えずにいると、唐木はそのまま、お疲れさん、とだけ言って、今度こそ私に背を向けて去っていった。
 その背に、さようなら、と返す声がなぜか出なかった。



***
 唐木に質問しに行くと、大抵長丁場になって、終わった頃にはタバコの匂いが制服に移っている。私はあまりタバコの匂いが好きじゃないので、結構困ったりしていた。

 うちの塾は、月曜日には授業がない。週に一回くらいは先生も休みたいんだろう、というのが生徒の間でのもっぱらの評判だった。
(…………開いてるかな)
 私は、そんな月曜日に塾に来ていた。ケータイをうっかり机に入れっぱなしにしてしまっていたのだ。開いてないなら開いてないで仕方がないけれど、塾は通学路の途中にあるので、少しの寄り道で確かめに行けた。
 駅のロータリーから続いている大通りを少し真っ直ぐに行くと、私の通っている塾が入っているビルの前に着く。塾自体は3階から5階だけにしかなくて、他の階はコンビニが入っていたりする。見上げると、5階には電気がついていた。どうやら誰かはいるらしい。私はいつも塾に入る時に使う裏口へ足を向けた。
(開いてる)
キィ、と音をさせてドアを開けると、私は階段を上って塾のあるフロアに足を踏み入れる。当然ながら、廊下はしんと静かで、いつもは大抵明かりのついてる教室も真っ暗だった。窓から差し込む光だけが、視界の頼りだ。私はいつもよりゆっくり注意して進む。昨日授業があった教室の前にたどり着いて、ドアを引いてみたけれど、流石にそこには鍵が掛かっていた。
「ん…………」
とは言え、明かりがついているところがあったということは、誰かしらいるはずだ。
 私は人のいそうなところがいないか探す。程なくして、電気がついていたのは一番奥の控え室だというのが分かった。ドアの窓から中を覗き込む。
(…………唐木)
部屋にいたのは唐木だけだった。相変わらずのぼさぼさな髪は手で掻き毟られて、更にぼさぼさになっている。左手はせわしなくタバコの灰を落としていて、何だか――
(……大人の、人みたい……)
 こんこん、とノックしても返事がない。何度か叩いてみたけれど反応がなかったので、私は少し迷ってから、意を決して部屋に入った。特に足音を立てないように進んだつもりでもないのに、それでも唐木は私に気づかない。
「先生」
「うぉっ!?」
背後から声をかけると、唐木はびっくりした様子で振り向いた。近づいて分かったけれど、耳にイヤホンをしていた。それのせいでノックの音に気づかなかったらしい。
「……何だ、高野か」
私の顔を見て安心したのか、唐木は胸を撫で下ろしていた。イヤホンを耳から外しながら、唐木は体を私の方に向ける。
「二重にびっくりした。誰もいないと思ってたし、そもそもお前、俺を先生なんて呼んだことなかったろ」
誰かと思った、と唐木は続けて、まだ長いタバコを灰皿に押し付ける。そうして、私に、どうしたの、と聞いた。
「教室に携帯を忘れて……」
少し言い淀んでしまったのは、口に出しにくかったからだ。うちの塾では携帯を使うのは禁止だったりするので、普通は怒るだろう。けれど、意外にも唐木はあっさりと頷いた。
「あー、死活問題だもんな」
言って、ちょっと待ってろ、と続けると、唐木は部屋の隅の方にある、鍵の大量に掛かったボードの方に歩いていく。
「教室、どこ?」
「5Aです」
答えると、唐木は鍵の一つを取って、私の方に戻ってきた。
「んじゃ行くか」
唐木は当たり前のことのように、私を誘う。
「……はい」
頷いて答えると、唐木はタバコの火が消えてるか確かめてから、私の先を取って歩き出す。5Aの教室は控え室から少し離れていたので、二人で少し廊下を歩く羽目になってしまった。

 授業ではそこそこ陽気なのに、授業が終わった後に生徒と一緒にいる時の唐木は大抵、一線を引いて接しているように見える。その雰囲気が私は何となく苦手だった。けれど、椅子を片付けたりしている時の唐木にはあまりそんな感じはしない。あの時、助けてくれた唐木もそうだ。それが何故なのか、不思議だった。
 ――唐木は、どこまでが本当の唐木で、どこまでが嘘の唐木なんだろう?
 そんな風に思ったことすらある。どこで切り替えてるのか全然分からない。今、こうやって廊下を歩いている唐木が、『どちらの』唐木なのか分からなかった。
「自分で探せるな?」
結局一言も交わさずに廊下を歩いて、唐木が次に喋ったのは教室の電気をつけた時だった。頷いて、昨日使った机の中を探すと、案の定、テキスト同士の隙間にケータイが入っていた。
 小走りで戻ると、唐木が電気を元通りに消す。教室の外に出て待っていると、中から出てきた唐木が鍵を閉めながら言った。
「結構新しい型の使ってるんだな」
「え?」
「変えたばっかり?」
指さされたのは、私のケータイだった。私はケータイを握り締めながら頷いた。
 前のケータイはまだ使えたけれど、史郎と同じ機種にしていたので、失恋と同時に買い換えていた。ケータイを使う度に、そういうところでしか史郎に近づけなかった自分の臆病さだとか、そういったものが思い出されて、耐えられなかったのだ。
 黙り続けていると、唐木も私に話しかけてこなかった。そのまま、控え室に戻る。
「何か飲む?」
 部屋に入ると、唐木が聞いた。唐木がそう言うのも、分かる気がした。荷物は全部揃っている筈なのに、私は意味もなく控え室についてきたのだから。
 頷くと、唐木は、コーヒーしかできないけど、と言いながら、鍵のかけてあるボードの更に奥の方へ引っ込んだ。どうやら、そこに給湯室があるらしい。
「その辺の椅子に座っとけ」
言われたので、私は唐木が座っている机の隣の席から椅子を借りて座った。思ったよりも座り心地が悪くて、仕事がしにくそうだな、とどうでも良いことを思った。
 手持ち無沙汰なので、唐木の机の上に広げてあるテキストを見てみる。授業の準備だろう、と思ったのに反して、良く分からない単語のオンパレードな難しい本と、少なくとも英語で書かれてるわけじゃない外国語の本、それに黒板よりも多少綺麗な唐木の字でノートが書かれていた。
「何見てんの?」
いつの間にか戻ってきていた唐木が、背後から私の視線の先を見ていた。
「あ、ええと」
「あー、それは大学の課題」
勝手に見ていたのを怒る様子もなく、唐木はあっさりと私の疑問に答える。机の上にコーヒーを置くために、唐木が閉じた本のタイトルは、手の陰になって分からなかった。
「何の課題ですか?」
「トウヒョウコウドウロン」
「え?」
聞きなれない単語が繋がった言葉だったので、聞き返すと、唐木は、んー、と少し考えた後言った。
「ま、平たく言えば政治学かな」
コーヒーを啜りながら、唐木がこっちにプリントを手渡してきた。投票行動論、と書かれていた。五教科みたいに大雑把に分かれたタイトルではないところが、いかにも大学の授業っぽい。政治学をやっているから、うちの塾で現社を教えてるんだな、とぼんやりと思う。コーヒーの入ったマグカップで手を温めながら、私は聞いた。
「先生、政治家になるんですか?」
唐木は、私の言った言葉の意味が分からない、という感じでしばらく目を丸くした後、ぷっと吹き出した。
「え?」
意味が分からなくて、呆気に取られていると、唐木はひーひー言いながら、コーヒーを机の上に置く。そのまま一頻り、耐えられない、という感じで体を折って笑った。
「わ、私、変なこと言いましたか?」
「へ、変って言うか……あー、まぁそうだよなぁ。高校生からすると、そんなもんかもなぁ」
笑い声の合間に辛うじて、唐木はそう答える。続けて、政治学やるからって政治家になるわけじゃないよ、と涙をこらえながら付け足した。
(…………何よ)
 確かに間違ってたのかもしれないけど、その様子が、馬鹿にしてるみたいで腹が立った。
「高校生からすると、って……先生、大学何年生なんですか?」
聞くと、唐木は3年、と答える。私が高校3年生だから、たった3つしか年は違わない。そんな風に思ったのが顔に出たのか、唐木はこう付け足した。
「大分違うだろ。お前、中学生とそんなに年違わないと思う?」
それは、確かに……結構違うとは思う。中学生と高校生では、知識量だって違うし、文化だって違う。
(…………だけど、)
 そう思って、けれど反論なんて思いつかなくて、私は黙った。自分がどうして反論したいと思ったのか、分からなかった。唐木の言ってることは正しいと、頭では納得しているのに。
「でも、私と唐木なんて、そんなに違わないじゃない」
なのに――口が、勝手に抵抗する。唐木は少し面食らった顔をして私を見た。呼び捨てにしたことにも、敬語を使わなかったことにも、気づいていたけれど、今更引っ込みが付かなくて、私は黙って唐木を見返す。
「先生だの唐木だの忙しい奴だね、お前も」
案外気にしていない様子で、唐木はまた一口コーヒーを啜った。その態度に、かっとしそうになる。大人にあしらわれている様で――それは、いつもの生徒との間に溝を引いている唐木だったから。
「怒らないの?」
「怒る理由がないだろ。高校生なんて背伸びしたい時期なもんだ」
そういう決め付けが、癇に障る。唐木の表情はどこか私を挑発するような、そんな子供をあやすような表情だった。それはいつもと同じ唐木だったのに、私は自分で理不尽だと思いながらも、続けずにはいられなかった。
「そういう態度、どうかと思います」
「俺も、お前のそういう態度、どうかと思うよ」
真面目な優等生じゃなかったのかよ、と続けて、唐木は私から目を逸らして、タバコに火をつけようとした。
「舐めないでよ」
言いながら、タバコを持った唐木の手を払うと、流石にかちんと来たのか、唐木ははぁ、とため息をついて立ち上がる。私のことも引っ張って立たせると、唐木は床においていた私の荷物を押し付けた。
「意味が分からん。取り合えず今日は帰れ。でないと怒りそうだ」
既にもう怒ってるのか、言い方はつっけんどんだった。正直、怖かった。自分でも怒られて当然だと思ったから、余計に。だけれど、その一方で私は――嬉しかった。

 何故だか分からなかったけれど、私は唐木を怒らせたかったのだ。

「……怒った」
確かめるように言うと、唐木は不機嫌そうな顔で私の方を振り向いた。
「何、お前、俺を挑発したかったの?」
その時、唐木が見せた表情を、何て言ったら良いのか分からない。ただ、唐木は怒ったような、呆れたような、でも面白がるような顔をしていた。
 唐木はその表情のまま、つかつかと至近距離まで近づいてくる。何、と思う暇もなかった。ぬ、っと行く手を立ち塞がれて、私は唐木を見上げるしかなかった。見上げた顔は、蛍光灯の影になって良く分からない。

 ただ、漠然と
 ――距離が近い、と感じた。

  「あんまり、大人を舐めちゃいかんよ?」
最初に感じたのは耳元の温度だった。次に、自分を抱き込む強い腕。気がつくと、唇が塞がれていた。
「んっ……」
いきなりのことでパニックになって、思わず息を止める。唇が触れている、たったそれだけのことなのに、どうして体がうまく反応しないんだろう。焦って、思考が空回りする。
(こういう時、どうすれば……)
 誰かに助けを求めたい――けれど、さっきまで誰もいなかった休みの日の塾に、一体誰が来るって言うんだろう? おまけにどんどん息が苦しくなっている。
「……っ、……!!」
強く手で叩くと、唐突に息継ぎの瞬間が訪れた。反射で慌てて空気を吸い込む。そうすると、舌が途端に苦味を認識した。私を抱きこんでいる腕はまだ解かれないままで、思ったより皺のないシャツから、タバコの匂いがした。体の近さに気づいてもがくと、少しだけ鼻で笑われた。
「処女みてぇ」
囁くような声で、そう言い当てる。思わず顔を上げて睨み付けようとすると、またさっきみたいな至近距離。目を閉じる暇もなくまた触れる唇。差し出された舌を噛んでやろうとする。けれど、それを予想したかのようにするり、と逃げられた。
「案外甘いな」
そう、苦笑と一緒に返されたのに――思わず目を惹かれてしまったのは、気の迷いだと信じたい。



***
 次の現社の授業は、出れなかった。次の次は、ほとんど黒板の方が――唐木の方が見れなかった。

「次、高野」
はい、と返すことも出来なくて、私は黙って立ち上がる。前が見れないだけで授業自体はちゃんと聞いていたから、読む場所がわからないわけではない。

 あの日、唐木とキスをしたことは、唐木の中ではなかったことになっているらしい。その次に会った時、私は目を逸らして何も言えずにいたのに、唐木はいつも通りの何処かやる気のなさげな顔でごく普通に話しかけてきた。盛んに話しかける恵にも、全く喋らず顔も見ない私にも、同じように接していた。
(……事故だ、)
そう、思うしかないと思った。胸の奥がなぜかもやもやするような、切なくなるようなそんな気がしたけれど、私は黙ってそれを無視した。唐木の顔を見れないのも、全部全部無視するしかなかった。
 あの日から、唐木が私に向けてくる顔は、全部『先生』の顔になったのだろう――それくらいのことは、真っ直ぐ顔を見れなくても分かっていた。だって――
(あの時、)
 だって、あの時確かに、唐木は――不味い、という顔をしたのだ。


 私は早足で控え室に向かう。さっき教室でいつも通り席を直している時に落し物を見つけたのだ。文房具程度なら無視しても良い、と思ったけれど、塾生カードだったので、流石に無視できなかった。最初は本人を探そうと思ったけれど、見覚えのない名前だったので諦めた。
(早く行かないと、)
唐木一人の控え室に行くのは気まずくて仕方がない。早い時間ならまだ他に誰かしらいるに違いない、そう思って私は急ぐ。けれど、角を曲がったところで歩を緩めた。控え室の明かりがついていなかったからだ。
 取り合えず近づいてみると、部屋全体の明かりはついていないものの、机のライトだけが中でぼうっと灯っているのが分かった。ドアの摩りガラス越しの一点に、明るい光が見える。
「失礼します」
ドアに手をかけると、案の定あっさりと開いた。少し席を外しているだけらしい。
 窓際の端の方、ライトをつけっぱなしにした机に近づく。大量のタバコ、物が多い割には、整然と置かれているテキスト類。飲みかけのコーヒーに、椅子の背にかけられた少し皺の目立つジャケット。
(……いないんだ、)
いなくてほっとするべきなのに、私は少し肩を落としてしまった。唐木とこの場所でキスしたのは、ほんの2週間前くらいのことだ。なのに、随分とこの場所は余所余所しい。
(……あの時も、こんな感じだったのに)
ほとんど何も変わっていないはずなのに。
 私は唐木の机に目をやった。授業の準備中に席を外したようで、今並べられているのは私も使っているテキストだった。ノートは意外としっかりと作っているようで、ところどころ赤線が引かれている――たったそれだけのものにも目を奪われる。
「……タバコ、」
携帯を取りに来た時に、唐木がタバコの吸殻の火を確かめていたのを思い出す。灰皿のタバコは既に数本がフィルタぎりぎりまで吸われていたけれど、さっきまで吸っていたらしいタバコだけは、まだ長い状態で残っていた。
 そのタバコを灰皿から取り上げる。火はついていなかった。
(…………)
そのまま口元に持ってきて、少し吸い込んでみると、思ったよりも鼻に来て私は思わず噎せてしまった。咳き込んだ音が思ったより大きくなってしまって、私は慌ててタバコを灰皿に戻す。ごほごほと音を鳴らす口元を押さえながら、慌てて辺りを見渡した。
(……誰も、いないよね)
確かめるように頷いて、私はカードを唐木の机の上に置いた。ノートに『落し物です』と走り書きだけして、そのまま振り返らずに控え室を出る。
(唐木、どこに行ったんだろう?)
そんなことを思いながら、私は足を速めた。



***
 呼び出しを受けることなんて滅多にないから、私は緊張していた。授業が進むのがとても遅く感じられる。やっと終わった、と思っても指定の時間までは少し時間に余裕があった。なのに、私は日課の椅子揃えも無視して、荷物をまとめ始めてしまっている。呼び出してきた相手が唐木だから、というのが理由なのは――もう否定できないだろう。
「葎、またあさって〜」
「うん!」
ろくに振り返りもせずに挨拶だけ返してしまって、少し自己嫌悪する。いつから、こんな女になってしまったんだろう。
 指定されたのは、指導室みたいなところで、塾に何でこんなものがあるんだろう、と恵たちといつも話していたところだった。まぁ……今回の使われ方も、正当な使われ方ではないだろう。少なくとも、教師と生徒が密会をするために設けられた場所ではないはずだ。
 ケータイの時計は、21時15分ジャストを示している。中には、人の気配。
「……失礼します」
ノックをしてから扉を開けると、机に座っていた唐木がタバコを持った手を挙げた。
「煙たいです」
「あぁ、悪い」
唐木は、珍しく私の方に視線を向けなかった。確かに、唐木が真っ直ぐに私を見ることはあまりない。けれど、話をする時はいつも、少なくとも私を視界に入れるようにしていたと思う。
「あ、あの……」
居心地が悪くて、私が言い出すと、唐木は携帯灰皿にタバコを押し付けながら、私の言葉を遮るように言った。
「こないだのは、忘れて。お前のこと、ちょっと勘違いしてた」
唐木は言う。視線が相変わらずこっちを向かないのは、気まずいからだろう。けれど、その顔はきちんといつもの顔をしていた。あの時の、からかう様な男の顔じゃなく。先生の顔で誤魔化してるわけでもない。
「高野?」

 ――けれど。

「忘れて、って、どういうことですか」
「どういうこと、って……いや、まぁ……そうだな、悪かった。お前にとっちゃ最悪の思い出だよな」
悪かった、と唐木は今度はしっかり目を合わせて私に謝ってくる。それは真剣な態度のはずなのに、どこか癇に障った。ずっと、ちゃんと『先生』の顔じゃない唐木と向き合いたかった――けれど、望んでいたのはこんな風じゃない。
(何が――)
思い出、だ。私にとっては、あんなの思い出になってすらいなかった。

 今でも、ふとした瞬間にあの感触が蘇ってくる。
 唇に触れる、少しかさついた唇。
 抱きしめられた腕の中の、タバコの匂い。
 そんなものが頭から離れなくて、ずっと、ずっと――

 気がつくと、私は唇をかみ締めていた。心が、熱い。私はその感情に任せてつかつかと唐木に歩み寄った。解せない、という唐木の表情を無視して、近づく。
「高野?」
そんな、不思議そうな顔、しないで。

 ――私が、傍にくるのが不思議だ、なんて、思わないで。

 思いっきり体当たりでぶつかると、唐木は、へ、という間の抜けた顔をしながら後ろに倒れた。唐木が掴みそこなった机が大きく揺れて、一瞬がたっと大きな音を立てる。そのまま倒れこんだ唐木は、頭こそ打たなかったものの、腰をしたたか打ったようで、すぐには立ち上がれないでいた。
「お前、」
次の言葉を言わせずに、私は唐木の体に馬乗りになる。なぜその行動にしたのかは、わからない。けれど、理由だけは分かる。何てことだろう。

 私は、こんなに簡単に、誰かを好きになったりしない。
 ――しない、はずなのに。

「……何?」
馬乗りになった私の下敷きになっている唐木は、読めない表情で私を見上げている。正直、見た目なんか全然好みじゃない。引っ掛けただけのジャケット、ぼさぼさな髪の毛――それに、私の大嫌いなタバコの匂い。全然、良い男じゃない。

 なのに、どうして私はこの男の上から動けないんだろう?

「……タバコくさい」
首元に顔を近づけると、余計にタバコの匂いが強くなる。
「あのねぇ、こういうの、良くないよ?」
はぁ、と唐木がため息をつくのが分かった。自由になっている片手で自分の額を押さえている。きっと、呆れているのだ。
「お前は真面目な生徒だけど、流石に言い訳がきかないって言うか、」
「言い訳、って何よ?」
その言葉に腹が立って、私は少し顔を離して唐木を睨み付けた。けれど、唐木が困ってるのも分かっていた。唐木は困った時、一瞬目を泳がせる。女の子たちに囲まれてた時に時々見せていた表情だ。
「ちょっと立ちなさい。お前、勢いに任せすぎ」
私の肩を抑える手には、力が篭ってない。それは、無理やり引き剥がしたら私が傷つくと、分かっているからだ。そして、私が唐木が困っていると察して、離れると分かっているからだ。
 ――何て、卑怯な男。
「いや」
「何で、」
「わかってよ!!」
唐木の言葉を遮って、私は叫んだ。涙が出てくるのが分かった。声が震えて、私は思わず目元を押さえる。ここで泣いたら、卑怯なのは私の方だ。否、泣かなくたって本当に卑怯なのは私の方だと分かっていた。

 けれど、どうして物分りの良い女なんてやってられるって言うんだろう?
 そういうプライドが、これまで後悔させてきたって、分かってるのに?

 涙は止まらずに、唐木のシャツに落ちた。そうして、少し沈黙が降りる。話し出すと涙声になるだろうから、私は黙っているしかなかったし、唐木だって、どうこう言い出せる雰囲気じゃないのだろう、黙っている。
「…………あー……分かったよ、もう良いから」
しばらくしてから唐木がそう言った。いつの間にか、大きな手が私の頭を撫でている。少し目を開けると、唐木が体を起こして私の方を見ていた。こんなに真っ直ぐに唐木が私を見たことなんてない。
「ケータイある?」
唐木は聞く。
「……あります」
言うと、家に連絡入れて、と唐木は続けた。
「え、あの……何て、」
「今日は帰らない、って。あー……そういうの大丈夫?」
「あ、あの、えぇと、うちはお父さんは単身赴任でお母さんは今日は夜勤だから、その……」
帰らなくて平気、続けようとして、その意味を急に意識してしまって私は黙り込む。唐木はそんな私のことを柔らかく押しのけて立ち上がった。埃を少し叩いて、私の方を振り返る。
「うち、来て。こないだの続き、するから」
唐木は、何でもないことのようにそう言うけれど――
「意味、分かるな?」
真剣な表情だった。暗い教室に入ってくる月明かりに照らされて、この人のこういう顔を初めて見たと思う。これまで、この表情を何人の女の人に見せてきたんだろう。こんな時なのにそう思ってしまって、少し悔しくなる。
 ここで首を振れば、きっと唐木はもう私を、気にかけてくれなくなるだろう。他の女の子と同じ――こんな表情を見せてくれることもない。
 気がつくと頷いていた。否、頷くと同時に、手を掴まれて唇を奪われていた。
 それは、男を感じさせる、貪るようなキスだった。



***
 唐木の部屋は、塾から二駅くらいのところが最寄り駅だった。
「ここ、降りるから」
言って、唐木は電車から降りる。時間が時間なので、制服姿の私は目立つらしく、時々視線を投げかけられた。けれど、そんなこと気にならないのか、唐木は私の手を引いて、そのまま歩き出す。
「……結構、かかるの?」
「いや、すぐ」
間がもたなくて聞いた言葉にも、唐木は短く返すだけだ。
 申し訳程度に看板だけ掲げた商店街や、どこにでもあるコンビニの前を通り過ぎて、段々明かりが減っていく。平地だから歩きにくい、ということはなかったけれど、歩幅が違うせいか、少し急かされるような感じだった。そうしてしばらく歩いて、学生マンション、というのがぴったりな建物の前で唐木は立ち止まる。
「ここ」
「…………」
いつの間にか、握られた手は汗ばんでいる。少し早足になっていたのか、知らず知らずのうちに私の息は上がっていた。何て返事をしたら良いのか分からなくて、私は唐木のことをおどおどと見上げることしか出来なかった。
「止めとく?」
なら送るから、と唐木は何でもないことのように言う。けれど、その視線は私を突き刺すようで、いつもの一歩引いた雰囲気は微塵もなかった。――なかったから。
「…………」
手を、きゅっと握った。

 それが合図になった。

 唐木は少し諦めたように私を見て笑った。それは苦笑にも、笑顔にも見えた。
「じゃ、俺も覚悟決めるわ」
そう言って、今度は私の手を引かずに、唐木は歩き出す。黙って後をついていくと、唐木は玄関横のナンバーキーに番号を打ち込んでオートロックを外していた。
(男の人も、オートロックのあるところに住むんだ)
そんなことを考えているうちに、階段を上って、3階まで進んだ。今度は無言で、部屋に導きいれられる。入ると、いつもの唐木の匂いがして、それが何だかこれからすることを連想させた。
「お、お邪魔します……」
「おう」
返事だけがいつもの唐木みたいだった。靴を揃えて部屋へ上がる。唐木の部屋はそこそこ片付けられていたけど、全体的に物が多い印象を受けた。キッチンには洗った鍋や皿が置いてあって、料理するんだな、とぼんやりと思う。
「俺、初回からキッチンでする趣味はないからな」
奥の部屋に入ったらしい唐木がそう言ってきて、私はびくりと体を震わせた。そうして返事をせずにいると、唐木は私の方まで歩いて戻ってくる。
「あ、あの……」
「何?」
「……えぇと、」
黙っていると、埒があかないと思ったのか、唐木に手を引かれた。奥の部屋のドアが開くと、真っ先にベッドが視界に飛び込んできて、私はどうして良いか分からなくなる。昨日寝たままになっているのか、布団が捲れ上がっているのが、逆にリアルだった。今から、そこで、私は……――
「あ、あの!」
「ん?」
「えぇと……」
思ったより大声になってしまったものの、言うことを考えていたわけではなかったので、私は次の言葉を続けられなかった。突っ立ったまま俯いていると、唐木は勘違いしたのか、ぽん、と手を叩いた。
「あー、ゴム? あるよ、ちゃんと」
何ヶ月前に使ったっけなー、と言いながら、唐木は部屋の隅に置いてある机まで歩いていって、その引き出しを探る。その姿は当たり前だけど、塾の教師というわけではなくて、普通の男の人だった。前に、という言葉が胸に突き刺さる。
「先生、彼女いたの……?」
「お前、俺を何だと思ってるの? 一応、彼女以外としたことないよ」
見当違いのことを言って、唐木は机の引き出しのものを取り出していた。
「ありました」
唐木はそう言って箱を振ってみせる。奥の方にあったらしい箱は、コンビニやドラッグストアで前をなるべく素通りするようにしてたからあまり覚えていないけれど、よくあるやつのようだった。何ミリ、とか書いてあるやつで、下品にならない程度に派手な色合いが踊っている。
 何だか頭がくらくらしてきた。と言うか、どうなんだろう。そりゃ確かに避妊は大切な話ではあるけれど、ムードもへったくれもない。

 本当にどうして――こんな男を好きになってしまったんだろう。

「こっち来て」
いつの間にかベッドに戻っていた唐木が、私を手招きする。どうして良いか分からなくて立ち尽くしていると、唐木が私を呼んだ。
「こっち来て、葎」
どうしようもなくなって、視線を下に向けながらベッドまで近づくと、唐木が私のことを座ったまま抱きしめた。右手で腰を引き寄せて、左手で耳の辺りを撫でる。
「葎」
そう言って、唐木が私に口付けた。最初は触れるだけ、それから段々その面積が大きくなる。口開けて、と言われて、そのまま唇を開くと、唐木が私の舌に舌を絡めてきた。そこまでは、体験したことがあった。さっきよりも唐木の舌には遠慮がなくて、口から涎が落ちるのも構わずに、私の唇を貪ってくる。
 そのまま、唐木の腰に当てていた手が、下の方に降りていって、私のお尻の辺りを撫でた。
「っ!!」
びっくりして顔を離すと、唐木もびっくりした顔をして私を見る。
「びっくりした、舌噛まれるかと思った」
唐木はそう言いながらも手を止めない。触り方はソフトだったけれど、間違いなくそういったことをしている、という触り方で、私は体を強張らせてしまう。緊張してるのが分かったのか、唐木は少し焦った顔で言った。
「いや、まぁ……こっちでする気はないんだけどさ、お尻触るのもステップと言うか」
もちろん、私だって後ろでされるなんて思ってない。けれど、触られてびくびくしてしまうのは、もう体の反応なんだから仕方がない。
「……お前、緊張しすぎ」
言いながら、唐木の手が私のスカートの中に潜り込む。ひんやりとした手の感触に、私は思わず腰を引いてしまった。悪いな、と言いながらも、唐木はそのまま私の太ももの辺りを触っている。温度が移って手が温かくなっても、触られる感触には慣れなかった。
「……っ、先生は、余裕?」
「さぁ? 確かめてみれば?」
言うと、唐木は私を膝の上に乗せる。いきなり体勢が変わってびっくりしていると、お前軽いね、と唐木の声が上から降ってきた。捲れたスカートを直そうとしたけれど、唐木の足と私の足の間に挟まれてしまっているからか、裾をうまく引っ張り出せない。そうして腕の中でじたばたしていると、唐木がいきなり下に着たキャミソールごと私の上着を背中までまくった。
「っ!?」
「なー、これってどこから脱がせるわけ?」
「ど、どこからって……」
「やっぱバンザーイってしてもらわんとダメな作り?」
言いながら、唐木の手が私の裸の背を撫でる。電流が走ったみたいになって、私は、あ、と小さく声をあげてしまった。しまった、と思って、口元を抑えると、唐木が私の背に回していた手を、徐々に前にずらしていく。
「あー、今のヤバい」
唐木の手に、本当に遠慮がなくなる。器用にブラのホックを片手で外されて、裸の胸を手で触られる。服はまだ着たままだったから、布地の下で唐木の手が動いている、ということしか分からない。けれど、予測が付かない状態で与えられる刺激は、思いのほか甘いものだった。唐木の手は思ったより大きくて、小さな私の胸は、多分すっぽり収まってしまっているだろう。こんな貧相な胸で呆れられないかな、と思う。けれど、飽きない様子で唐木は私の胸を弄んでいた。
「……っ、あ……」
不意にきゅっと乳首を弄られて、私は声を上げてしまう。唐木の肩の辺りにまわしていた腕に、思わず力を込めてしまった。
(どうしよう……)
 今のは、間違いなく気持ちが良かった。濡れてたらどうしよう、と思って、ばれないようにもぞりと足を動かす。と、何か硬いものが太ももの下に当たってることに気づいた。それが何か思い当たって、私はますます俯いてしまう。
「何?」
「あ、あの……」
「あー……」
私が気づいてしまった、ということが分かったのか、唐木が居心地悪そうに目を逸らす。
「いや、まぁ……勃つものが勃たないと出来ないでしょう、そこは……」
あぁー、もう、とがしがし頭をかいてから、はぁ、とため息をつくと、唐木は私のことを強く抱きしめた。
「もういい、抱くから」
そう言われて、思ったよりゆっくりと、大事そうにベッドの上に下ろされた。半分以上捲れていた制服を脱がされて、上半身が晒される。肌寒さと緊張で、声が出てしまう。
「…………っ」
「隠すなよ」
さっきまで触られていた胸を手で隠して、私は唐木を見上げた。唐木は思ったよりも真剣な表情で私を見下ろしている。その背後に見える蛍光灯の光が眩しくて、私は目を逸らした。
「あ、の……」
「何?」
「でんき……」
言うと、唐木が少し私から体を離して、手を伸ばして電気の紐を引っ張った。薄闇が訪れて、少し目が慣れない。けれど、目の前で呼吸をしている唐木のことだけは、すごく近くに感じられた。
「これで良い?」
聞いて、そのまま唐木は有無を言わさぬタイミングで、私の手を左手一本で頭の上に掲げ上げた。突然のことで何も反応できなくて、私はなすがままだった。晒された裸の胸が恥ずかしい。私の胸は小さいので、仰向けの状態だとほとんど平らになってしまっている。
「あ、の、ごめんなさい、小さくて……」
「別に。小さいって言ったらそりゃ小さいかもしれんけどさ、そういうの、問題じゃないでしょ」
沈黙が怖くて思わず口走ると、唐木はそんな私の緊張を全く意に介さない様子で、空いた右手で私の胸を触る。さっきまで触られていた胸は敏感になっていて、少しの動きでも反応してしまう。唐木の手は大きくて、包み込むように胸を弄んでいる。やわやわと感触を楽しむように触られたかと思えば、急に強く突起に刺激を与えられることもあって、全く予想がつかない。
「あ、あの……」
唐木とそういう行為をしている、というのが何だか恥ずかしくて出した言葉も、唐木に無視される。けれど、これ以上は耐えられないと思っていた沈黙も、やがて気にならなくなってしまう。唐木の顔の位置がいつのまにか下がっていて、次の瞬間にはぬるりとした感触が胸の突起を覆っていた。
「っ!?」
視線を降ろすと、ちょうど私の方を見上げていた上目遣いの唐木と目が合う。その表情は、どこか肉食獣を思わせる、貪欲さで。私はそんなところを見せられているという事実にかぁっと顔を赤くした。
「気持ち良い?」
唐木が短く聞く。答えられずにいると、唐木がそのまま私の胸を甘噛みした。敏感になった突起をやわやわと唇で刺激される。時々舌が尖りきった胸の先を舐めていく。気がつくと唇から、自分のものとは思えない甘い声が漏れていた。
「あっ……ん、」
口元を抑えたくても、手はまだ唐木に掲げ上げられたままだ。意思表示をするように手に力を込めてみたけれど、唐木の手はびくともしなかった。仕方なく、唇を噛み締めてやり過ごそうとすると、急に唐木が顔を寄せてきて、私にキスをしてくる。
「声、聞かせて」
唐木の舌が、私の唇を開かせるように、優しく舐めていく。それでも従えずにいると、唐木は唇の形だけで、私の名前を呼んだ。
「葎」
何度も何度も、繰り返される。それは切羽詰っているようにも、溶けるようにも聞こえる。
「りつ」
そうされると、もう何も考えられなくなって――知らない間に、唇からもれる声は大きくなっていて。
「あっ、んぅ……っ、」
 ――それから先のことは、恥ずかしくて思い出せない。



***
 目が覚めると、体のあちこちが少し痛かった。いつも仰向けに寝ているのに、なぜか体を横にしたまま寝ている。ぼんやりしながら体を動かすと、布団にやけに重みがあって、私は確かめるように二、三度瞬きをした。すると、背後でもぞもぞと温かい肌が動くのが感じられる。
「…………!!」
慌てて振り返ろうとすると、伸ばされた腕がつっかえる。どうやら、後ろから抱きしめられているらしい。
「えぇと、」
「……んー?」
半分くらい咎めるような声を出したつもりだったのに、答える唐木の声はのんびりしたものだった。寝ぼけているのかもしれない。
「朝、なんですけど」
「……まだ朝だよね?」
背後から一瞬だけ光の筋が差したけれど、すぐに消えてしまった。カーテンを少しだけ捲ったのだろう。ぱたり、と布団の上に降ろされた腕は本当に重力に逆らう気がないくらいに勢いが良くて、唐木がまだだるそうなのが分かった。けれど、これはどうかと思う。
「……土曜って、ゆっくりするもんだよね?」
あ、でもお前、真面目に起きてるの、と唐木が少しいつもの唐木の口調で言う。でも、いくら私が真面目だとは言っても、休日の朝もきびきび起きるほどちゃんとしているわけではないから、それは唐木の勘違いというやつで。でもそんなことよりも。
「あ、あの……」
確かに、ゆっくりというのには同意見だけれど、この落ち着かない格好はどうにかしたい。というか格好も何もなかった。
 私も唐木も裸でベッドの中にいたからだ。つまり、その、裸で寝ていると――
「なに?」
「あの…………」
「あー、わざと。当ててんの」
何について言ってるのか分かっていたのか、はっきりと唐木のモノがお尻の辺りに押し付けられて、私は振り向こうとした顔を慌てて背けた。男の人の朝の生理現象については知っていたけど、実際に目の当たりにすると(見てはいないけど)、すごく恥ずかしい。
「……何か初々しいね、悪いことしてる感じ」
唐木が私の裸のお腹の辺りを撫でる。それは性的な感じではなく、労わるような唐木の気持ちが伝わってくる触り方だった。
「……昨日、痛かったろ。ごめん」
ぽつり、と唐木が言うのが聞こえた。

 ――私が初めてだったことを言ってるのだろう。

 いよいよこれから中に入れる、という時、恥も外聞もなく、痛い、と叫んでしまったのが良くなかったらしい。私の反応で思い当たったらしく、唐木はそこでようやく、初めてなの、と私に聞いた。答えられずにいると、ごめん、と唐木は謝った。それから、私がどれだけ言っても、続きをしてくれなかった。

「お、お腹が空きました」
暗い雰囲気になってしまうのが嫌だったので、私はそう言ってベッドから降りた。立ち上がると、身に何も纏ってない違和感が増したので、私は脱がされた時に床に落とされた制服を手に取る。シャツもそうだけど、スカートの方は輪にかけて皺が酷い。ちゃんとハンガーにかけておけば良かったけど、最中にそんな暇はないし、そういう時は私の服を私が扱えるわけじゃない……のだろう、これからも、多分。
「服貸そうか?」
固まったままの私に唐木がそう言って、クローゼットの方に歩いていく。自分の部屋の中だからか、それともそういうことに慣れているからなのか、唐木は裸でも堂々としたままで、私の方が目を逸らしてしまった。
「シャツで良い?」
「……ハイ」
差し出されたワイシャツを着込む。洗濯したものにアイロンもかけず無造作に畳んだだけなのだろうそれは、どこか柔らかくて肌になじみやすかった。……唐木の匂いがするからだろうか。ボタンを一つ一つかけていくと、最後のボタンは太ももの辺りだった。下着を着けてないからすーすーするけど、思ったより体が隠れて安心する。
「うわっ……」
横でベッドに腰掛けた唐木が言うので振り返ると、頭を抑えた状態で唐木が視線を逸らしているのが見えた。
「マジで着ちゃうんだ……うわー……」
「? 渡してきたの、そっちじゃないですか」
そういうことを言われると急に恥ずかしくなって、私は慌てて自分の格好を確かめる。だぼだぼのワイシャツを身につけた私は、とても子供っぽく見える。けれど、唐木にはそうではなかったらしい。
「いや、だって裸ワイシャツだよ?」
「…………?」
「いや、……だからさ、その、」
何か口の中でもごもご言った後に、唐木が下を向いたまま、もういいや、と言うのが聞こえた。気を取り直したように唐木は私の方を向いて言う。
「で、ご飯どうする? うち、そんな材料ないよ?」
ない、と言われても、本当にないのか、あまりないのか、で大分違う。私は唐木に断って冷蔵庫を開けた。ちゃんと自炊してる人の冷蔵庫だった。調味料は一通り揃っているし、卵とネギ、それに少ししなびたほうれん草があった。
「常温で保存する調味料ってどこですか?」
「あー、そっちの上の戸棚」
言われて、手を伸ばす。シンクに手を置いて目一杯伸ばしたけれど、あと少し届かない。そうしてうんうん唸りながら手を伸ばして、首を痛くして上を向いていると、唐木が背後に立つのが分かる。
「ごめんなさい、届かな、」
振り向いて言おうとした言葉が、唐木の口の中に吸い込まれる。唇の感触と、抱き込まれる腕の強さが同時。何をされているか、ということを認識した時には、とっくに私の体は抱き込まれて唐木に支えられていた。
 息継ぎが出来ないくらいの、キス。呼吸をするタイミングがつかめなくて、頭が真っ白になっていく。唐木の舌が、私の舌に絡む。からかう様に、ついばむ様に唇が動く。それに翻弄されていると、唐突に唐木が顔を離した。
「な、何なんですかっ!」
口元を押さえながら抗議する。多分、私の顔は今真っ赤になっているだろう。
「いや、エロかったから」
「え……ろ?」
「手、伸ばすとさ、シャツずり上がるから気をつけてね」
慌ててぱっとシャツの裾を押さえる。確かに、シャツは股の辺りまで上がってしまっていて、大事なところが見えそうになっていた。……前言撤回、全然安心じゃなかった。ちゃんと下着を着けたい。けど、昨日の行為のせいで汚れてしまった下着は今ベランダに干されている……らしい。気がついたら床になかったので、訊ねると、流石に下着だけは気持ち悪いでしょ、と言われて洗濯機を指さされたから。
「と、とにかくご飯作りますから。そっちで待っててください」
「作れんの?」
「ご飯、時々は作ってるから」
取り合えず冷蔵庫をもう少し見て、冷凍のご飯を見つけた。本当にちゃんと自炊してる人だ、と変なところで感心する。ありがたく解凍して使うことにして、電子レンジの中へ放り込む。最初からこんな手抜きだと呆れられそうだけど、見栄を張ってもしょうがない。材料は卵とネギ、それと和風だし。ほうれん草をゆでるために鍋にお湯を沸かす。インスタントだけどお味噌汁も見つかった。15分もすれば、朝ご飯をテーブルの上に並べられた。
「……飯だ」
唐木は流石にもう服を着ていた。とは言っても、部屋着なのだろう、スウェットにTシャツというラフな格好だった。
「……手抜きですけど」
「いや、すげぇ。アレだ、炒めたやつ以外の料理、久しぶりだ」
……普段、この人の自炊ってどうやってるんだろう。私が用意したのはほうれん草のおひたしに、ネギの入った玉子焼き、インスタントのお味噌汁とご飯、それくらいなのに。
「んじゃ、いただきます」
私もいただきます、と唱和してご飯に手をつける。味は……いつもの自分のご飯の味だった。けれど、唐木は妙に感じ入ったように食べている。
「……美味しいですか?」
「うん」
やけに素直な反応。それはお世辞ではなかったようで、実際唐木は用意した食事の実に2/3くらいを一人で食べてしまった。まぁ、私はそんなに食べる方じゃないから、これくらいでちょうど良かったけれど。
「卵って素でやるだけじゃないんだな」
最後のネギの入った玉子焼きをつまみながら唐木が言う。そうして、もぐもぐと咀嚼した後に、お箸を揃えて言った。
「ご馳走さん」
「お粗末さまでした」
そう返すと、唐木が驚いた顔をして私を見る。
「うわ……今時、」
そこで唐木は一旦言葉を切る。
「古いですか?」
「いや、丁寧」
少し照れたようにそう言って、唐木は立ち上がった。私も慌ててテーブルの上の食器を片付けて下げようとすると、唐木に制止された。準備したのは私だから、片付けは唐木、ということらしい。好き勝手作ってしまったので申し訳ない、と思ったけれど、皿の戻す場所とか分からないでしょ、と返されて引き下がった。

 やることがなくなったので、私はそっと唐木の部屋を見回した。狭くはない部屋だけど、取り合えず家具も収納も多い。ベランダまで繋がっている窓の近くに大きな机が置いてあって、ハードカバーの本がたくさん並んでいる。机とベッドは同じ並びにあって、それとは逆側の壁には大きな本棚が置かれていた。何となく興味を引かれたので、私は本棚の中身を見てみる。
「…………難しそう」
私の部屋のあまり大きくない本棚には漫画だとか雑誌だとかしか置いてないけれど、唐木の本棚にはそういうものはほとんど見当たらなかった。私が知ってるタイトルだったのは、隅っこの方にまとまってぞんざいに詰められていた『美味しんぼ』だけだった。
「何か面白い?」
背後から急に声がかかってびっくりする。振り返ると、唐木がテーブルに湯飲みを並べているのが見えた。どうやらお茶を入れてくれたらしい。変に至れり尽くせりで、何だかくすぐったかったので、私はすぐにはテーブルに戻らなかった。
「何か難しそうです」
「そうか? タイトル読んでみ。結構適当なの多いよ?」
言われて新書のタイトルに目を通してみると、確かに……そんなに硬そうなタイトルばかりではなかった。何と言うか、唐木はかなりの雑食のようで、本当に色々なジャンルの本を買っているようだ。『金融危機』というような真面目そうなタイトルから『モテる男は何が違うのか』というような良く分からないタイトルのものまで色々だ。
「これとか、これとか、面白かったよ」
唐木がそんな本棚から、二、三冊本を引き抜いて私に渡してきた。ぱらぱらと捲ってみると、思ったより文章の密度の低いページが見える。図も結構たくさん見えたので、少しほっとした。
「何か好きなジャンルとかある?」
「いえ」
首を振る。私はどちらかと言うと本よりテレビの方が好きなんだけど、バラエティ、とか言われてもこの場合、唐木は困るだろう。
「……あ、っていうか読書好き? 好きじゃないとちょっと困るよな、こういうの」
私の反応で伝わってしまったのか、唐木が珍しく少し焦った顔で頬をかいたので、私は少し笑ってしまった。
「あまり得意じゃないですけど、読んでみます。……いつまでに返せば良いですか?」
「別に、いつまででも良いよ」
その何気ない一言が、何だか嬉しかった。借りていたものをいつ返しても良いのだ、という、たったそれだけのことで、唐木に近づけた気がして。
 唐木は少し思案するような顔をした後、ベッドサイドまで歩いていって携帯電話を手に取った。
「……番号要る?」
そうして、読み終わるまでいつまでかかるかわからないけれど、唐木から本を借りることになった。



***
 メールを打つのに、こんなに時間をかけるのは初めてだった。何度も読み返すのも、辞書を引きながらメールをするのも。
(……えいっ!)
ほとんど目を瞑る勢いで送信ボタンを押すと、私はため息をつく。『送信できました』の文字で息を吐いて初めて、息を止めていたのに気づいた。携帯電話をベッドに放り投げて、私は机の上の問題集に目を向ける。ベッドに置いていれば、メールの着信音が布団に吸収されるはずだから、気になることはないだろう……多分。
「……ホントに……」
自分でも呆れてしまう。一応、勉強はしているつもりだ。けれど、一番優先しているものが何かと聞かれたら、受験生にあるまじき答えになってしまうことは否めない。何せ、問題集を一冊解き終わるよりも、今まで見向きもしなかった本を十冊読み終わる方が早い。唐木に本を借りる約束は続いていて、今では週に一度、二、三冊のペースで借りていた。
 唐木が薦めてくれた本は、どれも私が触れたことのないジャンルの本で、面白いものも面白くないものもあった。正直に面白くない、とは言えなかったので、面白くない本の感想を打つのにはすごく時間が掛かる。自分で色々調べながら、『頭の良さそうな』返信を考えているので尚更だ。
「……でも、」
年下だって見くびられるのは嫌だった。唐木はただでさえ私を子供扱いすることが多い気がする。教室では当たり前のことだけれど、それ以外の時も、時々『先生』の顔が混じる。
 あの日、唐木の部屋に行ってから、私と唐木の関係は、『塾講師と生徒』から、『お互いの携帯電話の番号を知っていて、本の貸し借りをしている塾講師と生徒』に変わった。けれど変わったところといったらそれだけで、唐木の方から私の方に踏み込んでくる気配はない。私も、それが何故か聞く、という一歩を踏み出せない。外に一緒に遊びに行ったことなんかなくて、二人きりになる時間なんて、本を返しに行く時ぐらいしかない。手を繋ぐことすら、しない。
 これまでにやりとりしたメールは、大体長文だけれど十数通しかなくて、しかもどれも一往復で終わっていた。しかもほとんど本の話しかしていなくて、唐木から話題を振られたことがない。唐木用に作ってしまったフォルダには、最初の頃に送ったメールがまだ浅いところに残っている。

『この間借りた本、すごく勉強になりました。私はあまり哲学って好きじゃないけれど、わかりにくく書かれているから好きじゃなかっただけで、わかりやすく書かれているんなら面白いな、と思いました。哲学って茶化した文章で書いても良いんですね、知らなかったです。哲学お好きなんですか?』
『俺もあんまり哲学好きじゃないけど、食わず嫌いは良くないな、と思って読んだ。面白かったみたいで良かった。』

 そんな、どこまでも『先生』のような、大人と子供のような距離。
 私はベッドの方をちらりと見た。携帯電話のウィンドウには何の光も灯っていない。……メールは戻ってこない。唐木のメールはいつも、一日おいて返ってくる。
 まるで――線引きをするみたいに。



***
 恵が私の手元を覗き込んでくるのに気づいたのと、私がそれを隠そうとしたのがほぼ同時だった。
「あー、はやってるよね、それ!」
「……あ、えぇと……」
恵の声は大きいので、周りに必要以上に情報が伝わってしまいやすい。今手元にある小さな文庫本サイズの本は、珍しく唐木から借りたものではなかった。デート文庫、という何とも恥ずかしい名前のついたそのシリーズは、色々な地域のデートスポットをまとめた案内本のようなもので、私達女子高生のアンチョコみたいなものになっている。ネタにする地域が尽きたのか、最近になって私達の地方を扱った新刊が出たばかりだった。
「どっか行くの?」
「……分からない」
訊ねてきた恵に曖昧に返す。最初から大して気になっていなかったのか、恵はふぅん、と言っただけで、そのまま私の手元に目を向けた。さっきの質問は、デート文庫を読んでる人間への社交辞令みたいなものだろう。
 買ってみたものの、唐木をデートに誘う勇気はなかった。恵から本を隠すのを諦めて、行儀悪く頬杖をついたまま、私は本のページを捲る。今が年明けすぐだからか、紹介記事の比重はまだ冬のスポットが多めだった。それなりに色々紹介されている。けれど、私には分からなかった。どこを選んだら良いのだろう。紹介されているデートコースは、どれもそこそこロマンチックな、女心をくすぐるラインナップだったけれど、そのどこに行く姿も想像できなかった。唐木と私が並んで行けるところなんて、全然思いつかない。
「あー、ここここ、オススメ」
本を逆側から見ていた恵が、少し強引にページを開いたので、私は促されるままに目を走らせ――て、慌ててページを閉じた。。
「ちょ、ちょっと!」
「え、だって夜まで一緒にいるんでしょ? バレンタインデートとか考えてるんじゃないの?」
恵が指さしていた記事は、所謂ラブホテルの記事だった。最近だとブティックホテルだとかプチホテルだとか色々言い方を変えてさり気なく表に出てきているけれど、それにしたって私には少なくとも塾でおおっぴらにする話題だとは思えない。
「最近気づいたんだけどさ、葎、意外と奥手だよねぇ。だけどバレンタインだよ? 絶対そういうの考えた方が良いって! 下着、可愛いの持ってる?」
「め、恵!」
あっけらかんとごく普通の声量で聞いてくる恵の口元を私は慌てて強引に押さえる。
「ギブ! ギブってばぁ!」
恵が私の腕を叩く。時々変にこういう男文化っぽい行動が出てくるのは、恵がお兄ちゃん持ちだからだ。恵が男女関係に色々と詳しいのは、本人が恋多き女だから、というだけでなく、男兄弟がいる辺りにもよるのだろう。
「そっか、そっか。葎もそういう相手ができたんだぁ! よし、取り合えず日曜空いてる?」
「空いてるけど、」
「よし、全身コーディネート決定っ! 葎っていつも隙がなさそうな格好だからさぁ」
「え、あ、あのさ、」
「女友達でいる時はそういうのも良いけど、デートは絶対ガード甘めの方が受けるのっ。一回やってみたかったんだよねー、葎プロデュース!」
恵はそれだけ言うと、鞄からファッション誌を取り出してお店のチェックを始めた。鼻歌を歌いながら機嫌良さそうにしている恵へ断りが入れにくくなってしまって、私はどうしようもなくなって、手元に目を落とす。
「…………」
行くかも分からないデートスポットの記事が、目の前で踊っていた。



***
 メールを打とうとして、結局2時間かけても文面が考え付かなくて打てなかったので、私は本を返しに行く『ついで』に、唐木に直接デートの誘いをしようと思って、授業が終わった後、塾の廊下を歩いていた。

 結局恐ろしい散財をしてしまった。服を買うのはそこそこ好きだけれど、本当に下着まで買わされると思っていなかったし、恵が薦めてきた下着は、防御力的にも値段的にも信じられないものばかりだったのだ。連れて行かれた店の中で最も常識的な下着を選んだつもりだったけれど、家に戻って改めてクローゼットに仕舞う時、他の下着から明らかに浮いているのに気づいて、途方にくれてしまった。
(……絶対違和感がありそう……)
 買ってしまった下着を思い出しながら、私はため息をついた。あんなものを洗濯に出してしまったら、下手をすると家族会議になってしまうかもしれない。
(…………でも、)
それでも買ってしまったのは、多分勇気が欲しかったからだ。勢いをつけてレジに進んだ時、買ってデートへの踏ん切りをつけようとしている自分に気づいた。降り積もった二十通と少しになったメールが、新しく唐木に借りた本が、今のままで良いの、と私に問いかけてくるような気がして、私は――多分焦っていたのだ。

「……しいわね」
控え室のドアをノックしようとしたところで、私はその声に気づいた。携帯の時計は21時半過ぎを示している。大抵、この時間には控え室にはもう唐木しかいないけれど、今日は勝手が違うらしい。そっと中を覗きこむと、クルミ先生が唐木の机の方に寄って行くのが見えた。入りたいけれど、入れない。けれど何を話しているのか気になって、思わず聞き耳を立ててしまう。
「これ、私も買おうかなー、って思ってたんだけど。どうだった? 面白い?」
「面白かったですよ。この作者、これが面白くなかったら見限ってやろうと思ってたんですけど。やってくれましたね」
唐木の敬語は初めて聞く。別に嫌味な感じはしなかった。多分相手を尊重して話しているからだろう。クルミ先生は唐木よりも年上で、おまけに同じ『先生』なのだから。
 敬語は本来なら遠い間柄で交わすもののはずなのに、私は変にそれが羨ましかった。

 ――敬語よりも、線引きされた馴れ馴れしい言葉遣いの方が、遠いことを知っているから。

 クルミ先生はそのまま唐木の机に置いてある別の本もざっと眺めていた。唐木が控え室に残っているのは、授業の準備のためじゃない、と前に言っていたので、あのテキスト類はきっと唐木自身の勉強道具なのだろう。
「入門書が多目ね、やっぱり」
「まだ3回生ですから」
椅子から見上げながら頭をかく唐木に、そうね、とクルミ先生が笑う。その笑顔がやけに大人っぽく見えて、私は胸がずきりと痛むのを感じた。私がきっと大学生になったら、あんな表情も出来るんだろう。けれどその時まで、唐木は待ってくれるのだろうか。その時唐木はサラリーマンになっていて、周りにはもっと鮮やかに微笑めるOLたちがたくさんいるのかもしれないのに――? 
「まぁ最初からコン詰めるのもアレだし、息抜きの仕方覚えながらやってく方が良いわ。で、これ読み終わってるんだったら貸してよ」
「いや、すいません。これはちょっと……」
机の、勉強道具の山とはまた別に置いてあった本を指さして言うクルミ先生に、唐木は少し困った顔をしながら断りを入れた。もしかしたら、私に貸すための本を持ってきたのかもしれない。私がそう思って、少し身を乗り出して、その本を確かめようとするのと、
「そっか。まぁそうよね。どっちみち後ちょっとだっけ、来るの。結構分厚めよねー、辞める前に返せそうにないわ」
クルミ先生のその台詞が同時だった。

「あ……」
気がついたら、私は思い切り音を立てて、ドアを開けて、二人を見ていた。頭が全く働いてないことだけが、分かる。

 『辞める』――その単語だけが、私の中でくるくると回っている。

「? あー、高野か。返しにきたの、それ」
唐木が少し驚いた顔をして振り返った。私が本を抱えているのが目に入ったのか、腕の中の本を指さしながら唐木はごく普通の声で話しかけてくる。けれど、私は言われた瞬間、弾かれたようにぎゅっと本を抱きしめた。
「……か、」
多分、表情は歪んでいる。視界が緩んで、鼻の頭がつんとするのが分かる。耳鳴りに似た焦燥感が、私の体を舐めていく。唇から滑り落ちた声は、自分のものだと思えないくらいに、震えていた。
「返さない……」
その言葉に、唐木は訝しげな表情で立ち上がろうとする。その行動は唐木本人の行動のはずなのに、何故か私には――私から唐木を取り上げようとする動きに見えた。知らず知らずのうちに、足が一歩後ろに下がる。とん、と呆れるくらいに軽い音で、ドアに体がぶつかったことが分かる。
「……高野?」
「絶対に、かえさな……い」
唐木のことを睨み付けたつもりだったのに。多分、私は涙目で、ほとんど置いていかれたような顔をしていたんだと思う――唐木は、驚いたように目を見開いていたから。

 息を切らして気がついた時には塾の外だった。それも裏口の方で、滅多に誰も来ないところだった。案の定、この時間は電気の切れかけた街灯がぽつんとあるきりで、それが今、世界にたった一人だとすら感じさせる。
「…………っ、あはは、」
笑うことしか出来なかった。そこで私はようやく、唐木が塾講師を辞めるらしい、と認識できた。どうして、なんて愚問だろう。唐木が私にそれを告げていなかったことが全てだ。
(……逃げた……、)
 そうだ、唐木はそういう男だった。そういう男を強引に振り向かせたって、きっと――こうなることぐらい、分かってた。

 どうして、メールは続かないの?

 どうして、デートの一つもしないの?
 どうして――あの時、私を抱かなかったの?

 私は腕の中の本を抱きしめた。抱きしめるほどの大きさもない新書は、頼りなさだとか何かの終わりだとかそういったものを伝えてくる。涙で濡れた頬から、体温が少しずつ奪われていくのが分かった。涙は後から後から出てきて、それが現実を認識しろと言ってくる。私は、声を必死に抑えようとする。本を持っていない方の手で口元を覆ったけれど、どうしようもなかった。
(……いなく、なっちゃう、んだ)
思った瞬間、嗚咽が口から漏れた。
「……っ、」
後ろから足音が聞こえてきて、私はけれど振り返れない。また、子供扱いされたら困る。
「…………っ……」
こんなにみっともないところを、見られてしまったら、困る。私は本を胸に抱いたまま駅まで走った。

 振り返らなかったのは、唐木に捕まってしまったら困るのと――
 追いかけてきたのが本当に唐木なのかを、確かめたくなかったからだった。



***

 『話がある 授業後21時15分に指導室で』

 そんな短いメールが来たのは、私が本命の大学を受験した翌日のことで、唐木が辞める、と聞いてから一ヶ月以上経っていた。その頃には事実、もう唐木は辞めたようなもので、一つも授業を持っていなかった。センター試験が終わる時には辞める気でいたらしく、今はピンチヒッターのチューターに入っていて、けれどそれも3月で終わりらしい。
 私はずっと現代社会の授業には出ていなかった。唐木に会うのが怖くて、塾にいる時間を最小限にしていたのだ。私の様子に、最初は心配そうだった両親も、逃げるように勉強に打ち込んでいたせいか、受験直前になって上がり始めた私の成績に、寧ろ最近はほっとした様子を見せ始めていた。
「葎、どうだった?」
私学を受ける恵と国立を本命にしている私とでは授業が違っていたので、恵と顔を合わせるのは久しぶりだった。今日は国立が本命だった生徒達は大体その報告に来ている。とは言え、まだ結果が出たわけではないから、報告、というより緩んだ気持ちを引き締めに、後期対策を聞きに来た、というところだろう。私が机に座りながら、そこそこ、と答えると、恵は、えーっ、と大げさに声を上げる。
「ね、全然痛くなかったの?」
「……いたく……?」
話が噛みあっていない気がして、私は首を傾げた。試験に痛いも何もない――そう思っていた私の疑問は、次の恵の台詞で弾かれた。
「あれ、葎って初えっちじゃなかったの?」
誰かが鞄を置いている前の席を遠慮なく借りて、恵は私に興味津々で話しかけてくる。
「…………試験じゃないんだ……」
どうやら恵は私のデートの話をまだ引きずっていたらしい。あの日恵と買い物した時に買った服は、時々着ている。高い買い物ではあったので、特別な時だけだけれど。ちなみに下着はクローゼットの奥に仕舞ったっきりだ。
「どう、悩殺されてた?」
我が事のようにウキウキした様子で聞いてくる恵には言いにくかったけれど、嘘をついたりするわけにもいかないので、私は正直に答える。
「……デート、してないから」
「えぇ、何で!? 振られたの!?」
デートしない=破局、そんな恵の単純な考え方を、けれど私は否定することは出来なかった。あぁして走り去った私を、唐木は結局最後までは追いかけてこなかった。逃げるように授業に出なくなった私に、唐木は話しかけてこなかった。

 そんな状態で送られてきた、あのメールの、意味なんて。

「……そんなもの、かも」
私は、そう呟くしか出来なかった。



***
 いつかのように、唐木は指導室で先に待っていた。いつかのようにタバコを吸って、ノックして部屋に入ってきた私の方を見ないまま、ふぅ、と一つ、ため息をつく。
「試験、どうだったよ?」
視線はこっちを向かないけれど、思ったより突き放した感じではない声で、唐木は私に聞いた。私はどうしたら良いか分からずに唐木を見つめたまま答えた。
「まぁまぁ、です」
「ん、良かった」
唐木はそう言って、ポケットから携帯灰皿を取り出して、吸っていたタバコを中に捨てた。
「改めて言うの何だけど、俺、3月でここ辞めるから」
ズキン、と胸が鳴る音が体の中で響いた。直接聞いてショックを受けた自分に、私は驚いていた。理解していたのに、知っていたのに、それでもまだどこか、唐木がどこにも行かないことを、信じていたのだと気づかされて。
「……頭良いから、もう高野には、俺の言いたいこと、分かるよな?」
いや、分かってたよな、と唐木は確かめるように私の方を見る。私と唐木の距離は、教室の横半分くらいだった。なのに、たったそれだけの距離が、あの時詰められたその距離が、途轍もなく遠く感じられた。 
「お前はまだ高校生で、大学とかもっと広いとこに行ったら、俺とのこと、きっと後悔するよ。正直、全然俺なんて眼中なかったでしょ?」
こんなナリだし、と疑問形で唐木は笑った。皺になったジャケットの袖を見せびらかすように掲げてみせる。それは、どこか――自嘲するようで。言われて、唐木のことをどう思っていたか、唐突にフラッシュバックした。

 『正直、見た目なんか全然好みじゃない。引っ掛けただけのジャケット、ぼさぼさな髪の毛――それに、私の大嫌いなタバコの匂い。全然、良い男じゃない。』

「俺は、止めとけ」
距離を唐突に縮めてきて、唐木は、はっきりとそう言った。私の目を見て、本気でそう言っていた。
「……だから、私を抱かなかったんですか」
最初で最後の、唐木の部屋に行った時のことを思い出して訊ねた言葉に、唐木はあっさりと頷いた。
「んー、まぁそういうことかな。ただでさえ高校生だってのに、その上お前、遊んでるのかと思いきや、全然そんなことなかったからさ。そういう真面目なお前だから、きっと後悔、大きくなるよ」
諭すような台詞に、処女とかって重いしね、と本音なのか悪ぶっているのか嫌われようとしてるのか素なのか、全然分からない言葉をつけたした唐木は、あやす様に私の頭を撫でた。
「あそこまでいって、ヤらなかった俺に感謝してね。大丈夫、お前は魅力的だよ。一回はグラッときちまったくらいには、ね」
それは、これから私に他の誰かが見つかる、という示唆。向けられた視線は、『先生』のもの。
 手の温かさは、私の知っている、唐木のものなのに――でも、と唐木は続ける。
「忘れよう、それが無難だよ」
言いたいことはそれだけだ、と言うように、唐木は最後の温もりを離して、私から視線を外した。そのまま、唐木はポケットに手を突っ込んで、
「……私は、抱いて欲しかった」
ポツリと呟くような声だったけれど、その私の言葉に唐木の動きが止まった。

 ――見た目は、全然好みじゃない
 ――最初は、史郎のことが好きで、眼中になくて
 ――私はこれから、大学生になって

「確かに、全部唐木の言う通りかもしれない」
否、それは事実だ。全部否定しようがない。これまでのことも、これからのことも、私には否定できない。

 ――唐木にだけは、偽りたくないから

「でも、今唐木と別れたって、後悔するもの」
知らず知らずの内に握り締めていた手に、力が篭る。それが、自分の心の熱に拍車をかける。
 そうなのだ。唐木の言っているのは、確かに正論だけれど。いつかするかもしれない後悔は、きっと今の後悔よりも大きいのかもしれないけれど。
 私は唇を噛み締めながら、一つ一つの言葉を搾り出すように言う。今思っていることが、目の前にいるこの人に、ちゃんと伝わるように、考えて考えて。
  「同じ後悔するなら、私、唐木と一緒に後悔したい。あぁ、やっぱりダメだった、って泣くとしても。止めておけば良かった、と思うとしても」
私は唐木の傍へ行く。彼の手を握る。
 唐木は驚いたように私を見つめたままだった。
「……きっと、私、その後悔は大事に出来るわ。だってあなたがくれるものでしょう?」
多分、私は泣きそうなくらいに真剣で、けれど怒ったような顔をしているかもしれない。実際、腹が立っていたのだ。  この人は、私のためと言って、実際それは私のためなのだけれど。
「私、我侭だって分かってるけど、覚悟だけはちゃんとしてる」

 私が、唐木にしてほしかったのは――離れる思いやりじゃなくて、一緒にいる覚悟。
 私が欲しかったのは――私を送り出す『先生』の唐木じゃなくて、私を欲しがるような『本当』の唐木だ。

「悟ったような顔して逃げてるのは、そうやって予防線を張っているのは、あなたの方だわ」
意気地なし、と付け足した私に、今まで見たことのないくらいに腹を立てた顔で唐木はため息をついていた。
「……クソガキ」
低い声が聞こえたと思うと、舌打ちをして唐木は私を正面から見る。そうして、そのまま私と唐木は見詰め合った。  僅かな沈黙のあと、
「…………」
ふい、と唐木は目を逸らして、乱暴にドアを開けて行ってしまう。
 唐木は一度も、振り返らなかった。



***
「……落ちたのか?」
少し心配そうな声が聞こえて振り返ると、史郎が私がちょうど入ろうとしていたドアの方からひらひらと手を振っていた。史郎も今日は合格発表の結果を伝えに来たようだ。塾が閉まるギリギリの時間なのは、私と同じように先に学校へ報告に行ったからだろうか。
「ううん、受かったよ。史郎もだよね?」
「まぁな」
普通にそう答えるのが史郎らしい。史郎が受けていたのは相当な難関校だったはずだけれど、終始危なげない成績で見事合格した、と既に聞いていた。それと同時に、関東の大学なので、上京することになるらしい、と母が言っていたのを思い出す。
「遠距離になるの?」
「ん?」
「クルミ先生と」
言うと、史郎は少し面食らったような顔をした後、
「………………知ってたのか、」
そう呟くように言った。あのバレンタインの日に気づいたことを、私は口に出して聞かなかったけれど、何となくこの一年で確信していた。色々あったようなのは、雰囲気から何となく察していたけれど、それでも史郎とクルミ先生は、多分恋人同士なのだ。
 史郎は部屋の中に声が聞こえるのを気にしてか、私の方に近寄ってきて言う。
「いや、俺があの人についていくんだよ。偶然だけど」
「偶然?」
「あの人がいるから関東の大学にしたわけじゃない、ってこと」
史郎はそう言って、笑った。その笑顔は、今までの史郎のそれよりも、何処か落ち着いた感じで、多分クルミ先生のことを想って笑えるようになったからなんだろうな、とぼんやり私は思った。
「で、これから帰るの? それとも報告?」
今度は史郎が私の方に話を振ってくる。報告をまだしていないことを話すと、史郎は腕時計で時間を確かめた後、時間取らせたな、と謝ってきた。私は教員控え室に足を向けつつ、大丈夫、と史郎に返した。

「あー、りっちゃんだ! 受かったんだよね? ね?」
第一声はクルミ先生で、こっちに近寄ってきて抱きしめられた。クルミ先生は相変わらず女の子に対するスキンシップが過剰だ。一応一世一代のことだから自分で報告したかったのに、全く何も発言しないままに部屋中から拍手が贈られてしまっている。あの、と言いつつ少しもがくと、ようやくクルミ先生は体を放してくれた。
「もー、暗い顔してるから、めぐちゃんから聞いてなかったら落ちてると思っちゃってたわよ、その顔!」
ぺちぺち、と軽く頬を叩かれる。後ろでまぁまぁ、とやどいんがクルミ先生を抑えているのが聞こえた。
「それに、良かったじゃないですか、これで全員合格ですから」
「そうなんですか」
どうやら私で報告は最後だったらしい。何気なく目を逸らして見えた窓の外は、夜の帳に包まれている。もう遅いから当然だろうな、と思って、時間を確かめようと、時計のかけてある壁の方へ向くと、
「そうそう、全く、はらはらしたよ。今年は良かった、ホント」
ねぇ、と言いながら、やどいんが背後に話題を振るのが見えた。話を振られたその人は、そうですね、と答えつつ、私の方に向かって言う。
「おめでとう、高野」

 どくん、と心臓が跳ねるのが分かった。

「………………」
そこに居たのは唐木だった。完全に不意打ちだった。

 あれから、私は悲しいんだか悔しいんだか怒りたいんだか良く分からない状態でずっと過ごしていた。寝ても覚めても、次は唐木にどう言ってやろう、言えば良いんだろう、そうずっと考えていたはずなのに、いざ目の前にいると、どう言って良いのか分からない。私がそういう風に過ごしていたのと同じように、唐木も過ごしてくれていたのかは分からなかった。相変わらずの、読めない、いつも通りの『先生』の顔。
 咄嗟にすべり落ちた言葉は間抜けなものだった。
「な……んで、」
「何でも何も、3月まで一応先生だし。これでも生徒の行く末は気にしてるよ」
他の先生から、意外と面倒見が良いんですよね、と茶々が入るのを私はぼんやりと聞いていた。当たり障りのない笑みを返しながら、唐木は他の先生に道を譲られつつ私の方に近づいてくる。
「……な、んですか?」
意味が分からなくて視線で問うと、近くに来た唐木は私を真正面から見ながら言う。
「いや、本さ。貸してただろ」
「……え、あ、はい」
「……返す気、ある?」
どう答えたら良いのか分からなくて、私は頷こうとして言い淀む。唐木はため息をついた後、ちょっと違うか、と呟いて、頭をかいて少し考え込んだ。その後、ぽつりと唐木は言った。

「――また借りる気、ある?」

ほんの少しだけ、唐木の声は震えていたかもしれない。見上げると、少しだけ不安そうな光が、目の奥で揺れていた。
「…………はい」
そう答えると、唐木は呆れたように、諦めたように、小さく頷いた。



***
 少しだけ他の人たちと混じって話をした後、一人、また一人と帰っていく先生達を見送った私と唐木は、最後の二人になって、どちらともなく戸締りをしに教室に向かった。
「そっち、大丈夫?」
「はい」
答えると、唐木が教室を少し見渡した。ここが唐木と私が始めて接触を意識したあの教室だ、ということに私はその仕草で気がつく。あの時は今と逆で、唐木がドアに近い端の方にいて、私は窓際の辺りに立っていたはずだ。 唐木は他の教室ではしなかった机と椅子の位置を作業をし始めた。私も違う端からそれに倣って、しばらく机と椅子を静かに直していく。少し立ってしまう物音が、時々私達の距離を不安定に教えてくれる。
 そうして、私と唐木は教室の真ん中で、お互いその動きを止めた。
 言いたいことは未だ頭の中でぐちゃぐちゃになっているけれどたくさんあったし、唐木への返事だって、そもそも問いかけがあんなものじゃ、結局のところ、答えた気持ちが正しく伝わっているのか伝わっていないのかわからない。けれど、今回は唐木の方から言ってもらわないと、ダメな気がしていた。
 何も言わずに見つめ続けていると、お前ね、と唐木は呆れたように言う。
「絶対大学入ったら、他に良い奴いるよ。いるけどな、絶対後悔するけどな、」
そうして、唐木は私にキスをする。息が出来ないくらいに、たくさん。深いのも、浅いのも、たくさん。それは唐木が私を欲しくてたまらない、と言っているかのように情熱的で、子供っぽくて、我侭なキスだった。
「もう捨てさせてやらねー、別れてやらねー! 絶対に手放さないからな。ばーか、覚悟しろ」
ぎゅっと抱きしめられた腕の中で、唐木が耳元でそう言うのが聞こえた。それは囁き声じゃない、乱暴なくらいに大きな声で、ムードもへったくれもなかったけれど。
「良いです、それで。唐木が良いから」
体から力が抜けて、私はするりと口から言葉を、伝えることしか出来なかった。

 私は、ありのままの唐木が好きなのだから。

「…………、」
唐木がぐっ、と詰ったような顔をする。そうして、お前素直だよね、とため息をついて、唐木は引き寄せた私の頭をぐりぐりと肩口に押し付けた。それが少し痛くて逃れるように見上げると、照れているのか、さっきはあんなにキスをしたのに、唐木の視線は違う方向を向いていた。
 何となく、気になって私は聞く。
「私のこと、実は結構好きなの?」
ぶっ、と唐木が噴き出して私の方を見た。
「いや、そりゃお前……お前ね、俺のこと何だと思ってるの。家に呼んだ時『彼女以外とこんなことしない』って言ったでしょ」
呆れたようにため息をついて唐木が言う。
「……じゃあ、いつから?」
そう聞いて促すと、唐木は、んー、と思い返すように唸った。
「確かに最初は面倒だと思ってたよ。好きになるつもりなんかなかった」
そう、躊躇いなく答える。それは、胸に痛い言葉だったけれど、それを聞くと同時に私はどこか安心するのを感じていた。
 唐木が今語っているのは、誤魔化しのない事実なのだ。
「多分、お前の気持ちには、お前より先に気づいてたよ。『あぁ、きっとこいつ、俺のこと好きなんだな』ってさ。でも、俺自身の気持ち、ってのは正直良く分からなかった。気にはかけてたけど、それが生徒としてなのか、それとも特別なのか、なんて考えないだろ。物教えてるだけなんからさ」
 けど、と唐木はすぐに続けた。
「お前、俺のタバコ、吸ったろ」
かぁ、と顔が赤くなる。いつか、唐木の灰皿に置きっぱなしになっていた吸いかけのタバコを口にしたことを思い出す。改めて思い出してみると、どうしようもない行動で、私は顔を上げられなかった。あれを見られてたのか、と思うと、別の意味で顔が上げられなくなった。
「全然、嫌悪感、湧かなかったんだよ。寧ろ……何ていうか、……まぁ、だから……多分仕方ないと思った。こういうのって、理屈じゃないでしょ」
私の照れが伝染したのか、話題そのものが恥ずかしかったのか分からないけれど、唐木の話し口は終わりに近づくにつれて、段々曖昧になっていく。けれど、私は肝心の言葉を唐木の口から聞いていなかった。
「……仕方ない、じゃ分かりません……」
「あー……つまり、その、」
「それじゃ、足りない……です」
女ってのは、と唐木はぶつくさ言う。
「……きだよ」
小さく唐木が呟く声がした。何か付け足そうとした唐木の唇に、私は背伸びをしてキスをした。
「苦くない……」
さっきキスされている時はぼうっとしていたから気づかなかったけれど、いつもキスをする時にしていたあの苦味のある味が、あまりなくなっている。
「禁煙してんの。お前が顔顰めてるの、気づいてないとでも思った?」
言って、また今度は唐木の方から私に口付けた。そうして、額同士をどちらともなく合わせて、私と唐木は顔を見合わせて笑う。私の頬を包み込んだ唐木の手は温かくて、唐木との距離がゼロになったことを感じさせてくれる。
 多分、と唐木が小さく言って続けた。
「一回目にした覚悟はさ、犯罪者になる覚悟だったんだよな」
「犯罪者?」
慣れない言葉にぎょっとして聞き返すと、唐木は、あー、と誤魔化すように言いよどむ。
「……まぁつまり、未成年を抱く、ってこと」
言い難そうだった理由は分かったけれど、私は納得できなくて唐木に聞いた。
「でも、抱かなかったじゃないですか」
あの日、唐木は私を抱こうとしたけれど、最後まではしなかった。だから私はまだ処女のままだ。尤も、あそこまで色々あって処女と言い切ってしまうのも、何だか違う気がするけれども。
「…………だって、抱いちまったら戻れないよ」
「それは、」
「お前を抱いて、好きになっちゃったら戻れないでしょ。情が湧いて好きになってお前じゃなきゃダメで、でもやっぱりその後お前に「後悔した、やっぱり別れてください」とか言われる方の身にもなってみろよ」
勘弁して欲しい、とでも言うように、唐木の顔が歪む。こんなナリだし、といつか言っていたように、唐木は確かにだらしがなくて、無気力に見えて――だから、私はこんな唐木の様子に驚いていた。こんな風に、私を想ってくれるなんて、想像もできなかった。
「私は、唐木が良い」
「分かってるよ。けど絶対ってことはないし、絶対って思ってても、不安ってのは尽きないもんなの」
これだからこういうのってやなんだよな、と唐木は付け足した。それは聞き様によってはどうしようもない男の言葉そのものだったけれど、浮かべられた苦笑と偽りのないその雰囲気に、私は『本当』の唐木の素顔を見た気がした。
「…………カッコ悪い」
そう言うと、唐木は、分かってるよ、と憮然とした表情で答える。別に悪口のつもりで言った言葉ではなかったけれど、その意図は伝わっていたらしく、唐木はすぐに表情を緩めて笑った。
「あー、こんなに簡単に好きになるとは思わなかったんだけど」
そう唐木が呟くのが聞こえて。
 ――それは私もいつか思ったことだったので、思わず笑ってしまった。



【イージーイージーイージー(Ez! Ez! Ez!)/closed】


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