「ギタカ先輩、今日腹減る予定ありません?」
そう聞くのが蝶野のいつもの合図だ。
「まぁ今日は減るんじゃないの?」
俺が答えると蝶野は嬉しそうに笑った。
「何食います?」
「あー、今日はイタ飯はナシ。最近パスタばっかだったから飽きた」
「りょーかい」
今にもスキップしそうな蝶野の横顔を見ながら、こいつは何でこんなんなんだろう、と思った。


 蝶野心は俺のサークルの後輩だ。二時間以上かけて大学に通う奴なんか俺は他に知らない。そして自宅生なのにこれほど遊びほうけてる奴も俺は他に知らない。蝶野は終電がなくなるような用事があると時々俺の下宿に泊まりにくる。
「俺が腹減ってる時にしろよ。宿賃代わりに何か奢らせるから」
初めて泊まりにきた時に冗談で言ったその言葉を、律儀に蝶野は守っている。付き合いが何だかんだで半年になった今でも蝶野は泊まりたくなると必ず、腹が減らないか、と聞いてくる。俺は特に気にならないならオーケーするし、機嫌が悪かったり都合が悪かったりすると断る。どちらにしても蝶野はいつも笑って、りょーかい、と言うのだけれど。


「ギタカ先輩、食いすぎですよ」
「お前が選んだ宿が悪いんだよ、反省しとけ」
結局ラーメン屋で男二人、カウンターの隣同士で飯を食った。蝶野は細っこい外見の割りに胃にもたれるような物を良く食べる。今日はこってりラーメン大盛り、なんぞを食っていた。俺は俺でラーメンにチャーハンまで付けたわけだが。財布が痩身の貧乏大学生としては、食える時に食っとかなければ損なのだ。
「あ、じゃ俺こっちなんで」
蝶野がいつもの交差点で手を挙げる。
「今日は何だ、一回生の飲みか?」
夜遊びが過ぎる、と言っても蝶野の終電を逃す用事と言ったらオールナイトカラオケか飲み会しかない。当てずっぽうで言ってみると蝶野は頷いた。
「そうです。トオルんちで。あそこ片付いてないから嫌なんだけどな……」
珍しくぶつくさ言いながら蝶野が立ち止まった。こいつの渡る方向の信号は青だが気にしていない。いつもそうだ。蝶野は俺が横断歩道を渡りきるのを見てから道路を渡るために踵を返す。俺は蝶野に背を向けられたことがない。
「終わったらメールしろよ」
「りょーかい」
去り際にそう言うと、また蝶野はいつもの調子で笑った。


 レポートを書いてると、机の上でケータイの震える音がした。メールだろうと思って放置してると意外に呼び出し音が続く。パソコンの画面表示を見て、もう二時だろうが、と心で悪態をつきながら電話をとった。
「はい?」
「ギタカ先輩、蝶野です」
よく考えれば電話の主は蝶野以外ありえなかった。
「どうした?」
「何時くらいに行けばいいですか?」
質問ばかりが応酬していて埒があかない。俺は取りあえず部屋を見回した。三十点。全てはテスト前で尚且つレポートが溜まっているという悪条件が原因だ。
「一時間待て」
「りょーかい」
それだけで電話は切れた。三十秒も経ってなかった。
「短けーな」
何故か少し名残惜しく思えて、ちょっとケータイの画面を眺めてしまった。


 それからちょうどきっちり一時間後に蝶野がやってきた。
「先輩、ワイン好きですよね?」
手土産なのか飲み会の残りなのか、蝶野の手にはワインが一本握られている。
「レポートやってるからパス」
俺はそれだけ言って身体をどけた。うちの玄関は狭い。ついでに言うと部屋も狭い。その上お世辞にも綺麗とは言えない。蝶野が何が楽しくてここを宿代わりにするのかちょっと不明だ。
「あー、レポート中に押しかけてスンマセン」
遠慮したように蝶野が頭を下げるので、俺は、別にもう終わるし、とだけ言って部屋に入るように促した。
「その辺のもんどけて」
二人入ると本当に狭く感じる。俺が物を置きすぎだからかもしれない。蝶野は床に置きっぱなしにしてたビデオを脇にどけて座るスペースを確保していた。
「あ」
ふとその手が一本のテープを掴みあげる。
「ギタカ先輩持ってたんですか」
これ、と蝶野が示して見せたのは『蝶の心臓』というタイトルの映画のビデオだった。
「あぁ、まぁな」
「偶然! 俺も借りたんですよ。今日は飲み会兼鑑賞会で」
普通ならこんなB級映画見向きもしないところだろう。だが俺と蝶野が在籍してるのは一応映画鑑賞サークル、と銘打ってる集まりだからマニアックな映画を皆で見たところであまり不思議ではない。
「お前嫌いじゃなかったか?」
「あー、確かに嫌いなんですけどね」
以前、というか初めて蝶野と話した時の話題が『蝶の心臓』だった。蝶野心、と言う名前から容易に連想できる『蝶の心臓』を話に出したは良いが、本人がそれを嫌いだと分かって当時は焦ったものだ。俺自身は嫌いじゃない映画なのでちょっと複雑な気分になったのも覚えている。
「嫌いだ嫌いだって言っててまともに見なかったから」
「確かにな」
俺は思い出してクスリと笑った。蝶野に、何故嫌いなんだ、と聞いたら、ラブストーリーとして評価されてるものなんて恥ずかしい、と言ったのだ。蝶野には見ること自体が苦痛だったのだろう。
「で、感想は?」
「カップルで見に行くには良いんじゃないですか?」
気に入らなかったんだな、と俺は判断した。映画に関してただ感想だけ述べる時の蝶野は、興味を既になくしていることが多い。
「まぁ……『貴方の心臓は誰ですか?』だもんな」
茶化してみたが、実を言うとキャッチコピーを見た時に俺はこの映画を見に行こうと思ったのだ。陳腐かもしれないが俺にはツボにはまった感覚だった。
「心臓ですか……」
「あれ見た後には考えちまうよな」
主人公の女の方がクライマックスにこう言うのだ。『心臓はもうないの』と。胸を打ち抜いた後に言った台詞に二重の意味が込められてるということは、寝ていて映画の粗筋がわかっていなかった奴以外には分かったはずだった。
 まぁクサイことには変わりないけどな、と付け足すと、蝶野がビデオを俺の方に差し出しながら言った。
「目の前にいますね」
「は?」
「俺の心臓」
ビデオを受け取ろうとした手が、その言葉の意味を一瞬理解できずに止まった。
 意外に至近距離に蝶野の顔が見えた。
 何か、意識が途切れるような、感じ。
 ついさっきまで考えていたその思考が、急に真っ白になった。
「息詰めないで下さいよ」
真正面から捕らえられた目が存外真剣な色を帯びているのに気づいた。
「……胸、苦しくなりますから」
意味を捕らえかけて、でも今度はそれを脳が拒否して。俺は混乱して瞬きを繰り返してた。蝶野は少し自嘲したように笑って
「失言でした」
とだけ言った。それから時計の方をちょっと見た。
「始発、もうそろそろ動きますから」
蝶野はそう言って、俺が受け取らなかったビデオを机の上に置いた。
「ありがとうございました」
妙に、その声が遠く聞こえた。
 この時間に始発が動いてるはずがない、ということに俺が気づいたのは、追ってももう到底蝶野に追いつけなくなった頃だった。


 蝶野心が俺の下宿に泊まりにきたのはそれが最後だった。あいつは下宿し始めて、俺が三回生になってサークルを引退したから、接点はもうほとんどない。
 それでも俺と蝶野がたまに顔を合わせると、『蝶の心臓』はタブー視されたかのように絶対話題に上らない。



【what can I say more?/closed】


inserted by FC2 system