鼓膜が不快な羽音を捉えた一瞬で、方向を判断して思い切り手を叩く。感触は――空振り。毛細血管が切れたのだろう、掌が赤くなるばかりで虫の足の一本も捉えていない。ほんの少しだけ失望して気が抜けたところで、鋭い声が飛ぶ。
「そっち! そっちにもう一匹行ったじゃん!?」
反応する前に、思い切り背中に黄泉川の平手を食らう。だがそれも空しく、また耳元を震わせるブーンという音。生理的嫌悪感で思わず避けると、後ろにいたらしい打ち止めに腕が当たってしまう。
「い、痛い……ってミサカはミサカは頭を押さえてみたり!」
振り向いて様子を確かめようとしたところで、額を摩っていた打ち止めの手を叩くと、ようやく侵略者のうちの一匹が天に召された。胸糞悪い赤色が広がる気配はない。どうやら噛まれてはいなかったらしい。と、そこで一方通行は視線の先に、恨みがましそうな顔で自分を見上げている打ち止めを捉える。
「悪ィな、クソガキ」
「……更にいたい!ってミサカはミサカは涙目になってみる!」
 という訳で。
 黄泉川家は現在蚊と絶賛交戦中である。


 昨夜マンションから花火を見ていた時、ベランダとリビングの行き来があまりに頻繁だったので網戸を開け放ってしまったのが悪かった。リビングで夕食をとり終わってみれば全員数箇所刺されていて、そこでようやく事態の把握に至った。
 現在黄泉川のマンションには数匹の蚊が入り込んでしまっている。最初は無視していたのだが、肌に増えた赤い斑点が倍以上になったところで、誰からともなく蚊を追いかけ始め。それからかれこれ1時間ほど、黄泉川と一方通行と打ち止めは蚊の殲滅に勤しんでいる。
「……ききょー、まだじゃーん?」
物置に殺虫スプレーを探しに行った芳川に黄泉川が問いかける。
 全員が躍起になっている中、芳川だけはそれなりに涼しい顔を保ってはいた。が、無言で足やら手やらを勢いよくビシバシ手で叩いている姿はあまり心臓に良いものではない。取り合えず行方不明になっている最終兵器を探す役割を与えて一旦リビングから追い出した状態である。
「……………………」
だが返事はなく、時折聞こえてくるのは、ビシバシという平手の音。どうやら探し物は難航しているらしい。と、一際大きく叩く音。
「…………一匹、」
小さく呟く芳川の声に、リビングの三人は体を震わせた。


 交戦し始めて1時間と30分。流石に三人とも力尽きていた。
「も……もうダメ、ってミサカはミサカはネをあげてみたり」
思いっきりソファにダイブしてぐだーっと体を伸ばした打ち止めを皮切りに、黄泉川も一方通行も動きを止めて銘々体から力を抜く。掌で額を押さえた一方通行は、深々とため息をついた。
「つーかよォ、蚊ってヤツァ体温高ェのに寄ってくンじゃねェのか。こンだけ運動しまくってどォすンだよ」
「……なるほどじゃーん。ってことは格好の餌食ってことじゃん……」
げんなりした顔で黄泉川が手を団扇にして顔を仰ぎながら言う。打ち止めが僅かにソファから上体を起こして一方通行に聞いた。
「ねーねー、あなた反射を応用して蚊が嫌がるような周波数の音とか出せないの、ってネットワークから質問が来てたり」
「オイ。前から思ってたが、オマエラ俺のことなンだと思ってンだ……?」
「一方通行、頼られてるじゃん」
「そォいうのは体よく利用されてるってンだよ!」
大声でツッコミを入れたところで、一方通行は僅かに立ち眩みする。随分長い間動き回っていたので、体の疲労はピークに近い。だがこんな汗をかいた状態で止まっているなど、蚊に『存分に刺してください』と言っているようなものだ。一方通行は少し考え込んでから、とある考えを思いついて顔を上げた。
「一方通行ー、多分今同じこと思いついたじゃん?」
ちょうど同じタイミングでこっちを向いた黄泉川と目が合う。あぁ、やっぱりその結論か。一方通行は皮肉げに口の端を歪めて笑うと、今度は打ち止めの方を見た。
「なになにー?ってミサカはミサカは話に混じろうと一生懸命ソファから呼びかけてる!」
ちょっとだけ生気を取り戻したのであろう打ち止めが、ぶんぶんと手だけ振って主張していた。一方通行は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと諭すように言う。
「このまンま蚊に刺されちまうのも癪だろ」
「うん」
「――蚊は殲滅する。とは言え、さっきまでやってたよォなてンでバラバラの方法じゃどうしようもねェ」
「うん」
「ってことで、オマエ囮になれ」
軽く言い放った一方通行の言葉の意味が分からなかったのか、打ち止めは目をぱちくりさせて一方通行を見る。
「……え?ってミサカはミサカは聞き返してみたり」
一方通行は打ち止めの言葉を無視してソファに歩み寄ると、寝転んでいる打ち止めの剥き出しの腕や足を遠慮なく触り始めた。
「え、えぇぇって言うか何であなたはいきなりミサカに触るかな!? ミサカにだって心の準備というものが……ひゃっ、くすぐった……ひゃ、」
打ち止めの要領を得ない言葉はすぐに笑い声に取って代わる。ソファの上で笑い転げる打ち止めが偶然に繰り出してきた蹴りを避けると、一方通行は確かめるように今度は自分の額に手を持っていった。
「ちょっと一方通行。囮は別に打ち止めじゃなくても良いじゃん?」
黄泉川は抗議の声を上げて、一方通行に非難の目を向ける。一方通行は黄泉川の意見に、不機嫌そうに片眉を吊り上げた。
「あァ? どう考えてもさっきはコイツの撃墜率が一番低かっただろォが。体温も高ェみてェだしよォ。噛まれる前に殺せば問題ねェだろ」
笑いが止まらなくなったのが怖かったのだろう、打ち止めは若干涙目になりながらソファの端に避難する。そんな打ち止めを特に気にする様子もなく、一方通行はソファの空いたスペースに腰を下ろした。
「だぁーめ、じゃん。誰だって刺されるかも知れないのは嫌な役じゃん。こう時はじゃんけんじゃん?」
二人の方に近づいてきた黄泉川が、拳をあげて高らかに宣言する。付き合っていられないという顔で一方通行はそっぽを向いた。打ち止めは不思議そうな顔で黄泉川を見上げる。
「? じゃんけんって何、ってミサカはミサカは……あ、そういうものなんだ、ってミサカはミサカは納得納得」
説明する前に納得したところを見ると、恐らくネットワークででも聞いたのだろう。打ち止めは、ふんふん、と頷いている。一方通行は不機嫌そうに頭をガリガリかいたが、特に文句は言わなかった。反対してかかる労力を瞬時に悟ったのだろう。黄泉川は満足そうな顔で笑う。
「じゃあ負けた人が囮になるじゃーん? 誰が負けても文句はなし!」
拳を振り上げると、釣られたように打ち止めが大きく、一方通行は面倒くさそうに少しだけ、拳を上げる。黄泉川は勢いよく言い放った。

「じゃーんけーん!」

差し出された手は、グー、グー、パー、そしてチョキ。黄泉川がいきなり多くなった一本の手を視線で辿っていくと、幾分呆れた顔で芳川が手を出していた。
「あれ、桔梗?」
「何だか不毛なことしてるわねぇ」
言って、芳川はソファの近くにあるテーブルに何かの箱を置く。打ち止めは興味津々いった様子で体を伸ばすと、早速箱をこじ開けた。
「お、おぉー!ってミサカはミサカは感嘆の声を上げてみる!」
がさごそと中身を確認して取り出した打ち止めが手にしていたのは、ブタが口を開けている姿を象った蚊取り線香だった。一方通行は目を細めて打ち止めの手元を見る。
「オイオイ、またレトロなモン持ってきやがったなァ」
「しょうがないでしょ、スプレーが見つからないんだから」
どこか嬉しそうな呆れ顔で答えると、芳川は少しぎこちない手つきで線香に火をつける。淡い橙色の火がやんわりと灯り、耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな音で煙を紡いでいく。
「これはこれで悪くないじゃん?」
ソファの背から身を乗り出した黄泉川が、蚊取り線香を覗き込みながら言った。少々煙たくはあるが、匂い自体は気分が悪くなるような類のものではない。
「一つ、問題はあるわ。これ、蚊避けにはなるけど、殺虫は無理なのよね」
あまり困っていない顔の芳川の呟きを受けて、打ち止めが勢いよく手を上げる。
「はーいはーい! ミサカはミサカは大提案! 今日は皆ここで寝れば良いよ!ってミサカはミサカは主張してみる!」
黄泉川も芳川も元からそう考えていたようで、打ち止めの意見に頷いた。だが、一方通行だけはリビングを見渡して舌打ちする。
「どう考えても狭ェだろォが」
「? 一緒に寝れば良いじゃない。あなたは冷やっこいから一緒に寝てても暑く思ったことないよ?ってミサカはミサカはフォローしてみたり」
「オイ……クソガキテメェ……」
何のフォローにもなっていないどころか、時々同衾していることまでバラされた一方通行はわなわなと体を震わせる。わけが分かっていない打ち止めと、一方通行ににやにやとした視線を送る大人二人。

 何だかんだで、黄泉川家は今日も平和だった。


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夏休みの家族
皆でリビングで川の字+もう一本、をやりたかっただけだったり
家族っぽい四人も良いかなぁと思うのです


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